太田述正コラム#9793(2018.4.29)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その52)>(2018.8.13公開)

 「<返書を発出した>弘化2(1845)年<に、>・・・阿部政権は、・・・常置の職としての・・・海防掛<(注119)>を創設し、・・・老中(<2名>)・若年寄(<2名>)の4名が任命された・・・が、・・・その後勘定(勘定奉行・勘定吟味役)と目付(大目付・目付)の両系統から<も>海防掛が数名ずつ任命され<る運びとなり>、安政5(1858)年7月に外交専務機関である外国奉行が設置されるまで、評定所一座(あるいは三奉行)とともに対外政策の諮問機関の役割を果たした。

 (注119)海防掛は通称であり、正式には海岸防禦御用掛。「当初は常設ではなかった・・・寛政4年(1792年)にロシアの・・・ラクスマンが通商を求めて来航したことにより、海防の重要性が認識され、老中松平定信が海防掛に任じられたのが最初である。天保13年(1842年)には、信濃松代藩主真田幸貫(松平定信の次男)も老中・海防掛を務め、松代藩士である佐久間象山が世に知られるきっかけとなった。・・・
 嘉永6年(1853年)のペリー来航に際して強化され、・・・海防掛は諮問機関から行政機関へと変貌し<、その際>・・・阿部は将軍を中心とした譜代大名・旗本らによる独裁体制の慣例を破り、水戸藩主徳川斉昭を海防参与に推戴した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E9%98%B2%E7%A6%A6%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%8E%9B

⇒眞壁は、人名に旧字を使うわ、時にはその人名も(筒井政憲ならぬ筒井◎渓(下出)といった具合に)通常用いられていない呼称(筒井の場合は号)を用いたり、と当時の文書等への通暁ぶりを見せつけてくれていますが、そのくせ、海防掛については正式名称を使わなかったり、また、阿部は海防掛を常設化しただけなのに、「創設」と書いたり、更には、(ウィキペディア上掲の記述が正しいとして、)阿部による後における海防掛の機関化にも触れておらず、厳密性への無頓着さも窺え、一貫性に乏しい、と言わざるを得ません。(太田)

 しかし、・・・彼ら以外にもこの阿部政権の外交政策の補佐役として筒井◎渓<(前出)>が首脳部に加わり、海防掛以上に影響力を行使したのである。
 水野政権での町奉行在任中に起こった仙石騒動<(注120)>に因て・・・非番の寄合となっていた◎渓は、弘化2(1845)7月19日に、新たに西丸留守居役学問所御用を命じられ、学問所御用の林復齋と同じ権限をもつように任じられる・・・。

 (注120)「<19世紀に>出石藩で<幕府を巻き込んで>発生し<、長く続い>たお家騒動。しばしば「江戸時代の三大お家騒動」の一つとして紹介される。・・・
 幕府内でも、老中松平康任は同時に発覚した密貿易(竹島事件)の責も含め失脚、隠居を余儀なくされた他、南町奉行筒井<◎渓>と勘定奉行・・・も失脚した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E9%A8%92%E5%8B%95
 仙石藩(1706~1871年)は、現在の兵庫県豊岡市出石町の出石城に藩庁のあった外様の藩(5万8000石→3万石)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%9F%B3%E8%97%A9

 当時、幕府の学政全体を総括する林大学頭には林培齋(▼宇)が就いており、復齋と同役に就任した◎渓には別に特別な任務があったと想定される。
 たしかに彼は復齋と同様に月並講釈も職務として勤めている。
 だが、・・・海防掛は、打払復古令を初めとする対外政策決定の際にまず◎渓に諮問しており、かつて文化から天保年間に林大学頭述齋が果たした対外政策顧問の役割を、長崎奉行歴任者で、文政の打払令評議には町奉行として参与した◎渓に担わせたとも解しうる。・・・
 海防掛創設や筒井任命の數ヶ月前の弘化2年2月のマンハッタン号による漂流民送還と受領の際の意志決定が、三奉行と大小目付への諮問だけだったことと比較するならば、この意思決定過程の変化は明瞭である。」(327~328)

⇒推測だらけの文章ですね。
 私自身は、幕閣は、幕府の昌平坂学問所の教育研究行政長官兼対外儀典官として大名家から林述齋を送り込んだものの、本来の林家下でこの職が世襲されてきた前例から、述齋の後任に彼の嫡男の▼宇を充てたものの、(儒官としての能力はもとよりですが、)その行政官としての能力に心許なさを覚え、彼の職務を事実上代行させるべく、復齋、更には◎渓を送り込んだ、と見ています。
 (昌平坂学問所がらみの業務量が増えたこともあるのでしょうが、送り込んだのが一人だけでは、▼宇がお飾りであることが明白になってしまうから、ということだった可能性があります。)
 「海防掛創設や・・・マンハッタン号による漂流民送還と受領の際の意志決定」の時に▼宇がはずされたのは、単に、それらが、儀典を伴わない意思決定だったから、とも。
 なお、単なる校正ミスかもしれませんが、眞壁自身の文章の中に、「数ヶ月」ならぬ、旧字を用いた「數ヶ月」が登場したのには苦笑しました。(太田)

(続く)