太田述正コラム#9799(2018.5.2)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その55)>(2018.8.16公開)

 「嘉永2<(1849)>年の諮問は、特にアメリカ軍艦プレブル号が3月26日に長崎入港を強行して漂流抑留民の引き渡しを要求<(注126)>、さらにイギリス軍艦マリナー号が閏4月8~9日浦賀へ、続いて12~17日に下田に寄港し、両港内で測量を実施した<(注127)>ことに端を発した。

 (注126)「嘉永元年{一八四八}七月捕鯨船ラゴダ号の乗組員十五名が、船内で反乱を起こして脱走し函館近くの海岸へ上陸した。彼らは長崎へ護送され、拘禁中に船員一人が自殺、一人が病死した。この拘禁中にオランダ商館長が広東のオランダ領事を通じてこのことを<米>公使に通報した。
 そこで、グリン艦長率いる<米>東インド艦隊プレブル号が、拘禁中の船員救出のため長崎に現れた。グリン艦長の強硬な態度に武力衝突を心配した長崎奉行は、オランダ商館に乗組員を引き渡し、オランダから<米>軍艦へ引き渡した。
 これより二年前、弘化三年(一八四六)六月、七人の<米>人が小船でエトロフ島にたどり着いた。彼らは捕鯨船ローレンス号の乗組員でカムチャツカで捕鯨中に暴風雨に遭って遭難した。長崎に送って国外に去らせる決定が江戸から届いたのは冬だったので、船を出すことができる春まで待って、長崎へ到着するまでに一年一ヶ月が経った。
 それからオランダ船に引き渡してバタヴィアへ送還されるまで拘留は十七カ月ににおよび一人の船員が病死した。
 乗組員の一人が語ったことが、一八四八年一月六日(弘化四年十二月一日)のシンガポールの新聞「ストレート・タイムス」に掲載されたが、病死した船員は脱走を企てて殺されたように報告され、狭い檻に閉じ込められて運ばれたり、踏み絵を強制された話などが、<米国>の新聞にも紹介され大きな反響を巻き起こした。このため<米国>の世論は、ラゴダ号乗組員についても強い関心を持っていた。
 グリン船長のプレブル号がニューヨークに寄港したことが一八五一年一月三日付の「ニューヨーク・ヘラルド」紙に大きく報道されたが、その記事は「日本に囚われの身であった<米国>人の解放」のサブタイトルで日本人の野蛮さを強調した内容であった。」
https://plaza.rakuten.co.jp/youichis22/diary/201010020000/
 艦長のジェームス・グリン(James Glynn、1800~1871年)中佐は、その後、「米国政府に対し、日本を外交交渉によって開国させること、また必要であれば「強さ」を見せるべきとの建議を提出した。彼のこの提案は、・・・ペリーによる日本開国への道筋をつけることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%B3
 (注127)江川英龍(1801~55年)(通称:江川太郎左衛門)は、「洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた<ほか、>・・・農兵軍の組織までも企図した。・・・伊豆韮山代官<という、>・・・地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した<ところ、>・・・死ぬまで・・・開国・通商論に転じ<ることなく、>頑迷な海防論者<であり続け>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E9%BE%8D
という人物だが、マリナー号との交渉にあたらされている。
 「幕府は<浦賀>奉行は当てにならないと考えた。かといって江戸城から人材を送るほどの決断は出来ない。それにより浮上して来た人物は水野忠邦の時代に西洋通として海防にも精通していた・・・江川英龍であった。・・・
 彼<は、>・・・数百の兵・・・<を>引き連れて<いき、交渉を行った結果、>・・・マリナー号は下田を退去していった。」
http://ncode.syosetu.com/n1284db/34/

⇒これほど、欧米先端軍事装備・編制に関する知識を持ち、その日本への移植に努めた江川のような幕臣が、鎖国を維持できると考えた、いや、それ以前に、(遣隋使・遣唐使を思い出すまでもなく、)鎖国を維持していて、欧米先端軍軍事装備・編制のまともな移植ができると考えた、のですから、いかに、幕府の人材養成システムに深刻な欠陥があったか、ということです。(太田)

 とりわけ後者は、阿片戦争の覇者、大帝国イギリスの日本への本格的な接近開始と捉えられた・・・。
 5月5日には、三奉行・大小目付・海防掛・長崎・浦賀両奉行<(注128)>・弘化4年2月に江戸湾沿岸警備を命じられた川越・忍(おし)、また彦根・会津の4藩に打払令復活の可否諮問がなされるが、それらすべてに先立つ諮問が学問所儒者への意見徴集であった。・・・

 (注128)「相模国浦賀に設けられた江戸幕府直轄地の遠国奉行の一つ。格式が 1000石で,老中の直接指揮を受ける要職であった。享保5(1720) 年に下田から転置された。浦賀番所を主管し,付近の天領の施政権を兼有していたが,おもな任務は江戸湾の出入船舶を改めることであった。・・・初めは江戸に在勤していたが,外国との交渉が恒常的になると,現地で執務した。・・・安政年間(1854年−1860年)の開国以後は要職となり,長崎奉行より上座となる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%A6%E8%B3%80%E5%A5%89%E8%A1%8C-35280

 林家や学問所御用などの代表者ではなく、また儒者の総意としてでもなく、個々人の単独責任において複数の政治意見が幕閣に上程されたのは、これ以前に遡ることは現在のところ出来ない。」(336~337)

⇒眞壁は、それまでの、林▼宇や「学問所御用」たる筒井◎渓への諮問は、昌平坂学問所の代表者への諮問、ないしは、儒官達の総意を問う諮問であったと主張しているわけですが、「昌平坂学問所の代表者への諮問」≒「儒官達の総意」であるところ、林▼宇「と」筒井◎渓の両名への諮問があった一件だけでも、林▼宇への諮問が、学問所御用たる▼宇ではなく、西丸留守居たる▼宇に対するものであったのは明らかだ、と私は思うのですが・・。
 それにしても、これだけ多数の幕臣達に諮問したのは、1853年のペリー来航の際に、「親藩・譜代・外様を問わずに諸大名をはじめ、旗本さらには庶民にも意見を求め」たこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
がその延長線上にあるところの、阿部老中首座による、責任回避策以外の何物でもなかった、と見るべきでしょう。(太田)

(続く)