太田述正コラム#9805(2018.5.5)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その58)>(2018.8.19公開)

 「ペリー来航<後の>・・・嘉永6年7月3日には、徳川齋昭が新たに海防参与を拝命した。
 その背景には、徳川御三家の雄というばかりでなく、島津齋彬・松平慶永・鍋島直正<(注133)(コラム#8115、9769)>・伊達宗城<(注134)(コラム#6559)>・真田幸貫<(注135)(コラム#8115、8442、9793)>ら有力諸大名とも親しく文通して情報交換を行っていた齋昭を登用して、諸大名の意見調停に期待したとも言われる。」(345)
 
 (注133)1815~71年。「第10代肥前国佐賀藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道<(コラム#9692)>の娘。正室は徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は[徳川御三卿の一つ田安徳川家第3代当主<で>・・・江戸幕府11代将軍徳川家斉の異母弟にあたる]徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。・・・
 藩主・・・襲封・・・当時の佐賀藩は、フェートン号事件以来長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主・斉直の奢侈や、2年前のシーボルト台風の甚大な被害もあって、その財政は破綻状況にあった。・・・
 斉正は・・・当初は江戸にいた前藩主・斉直とその取り巻きら保守勢力の顔をうかがわねばならないことが多く、実行できた改革は倹約令の発令がせいぜいであった。・・・
 <しかし、その後>、役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料の支払免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。役人削減とともに藩政機構を改革し、出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に政務の中枢へ登用した。
 さらに長崎警備の強化を掲げるも、幕府が財政難で支援を得られなかったことから、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関・蒸気船(凌風丸)までも完成させることにつながっている(それらの技術は母方の従兄弟にあたる島津斉彬にも提供されている)。
 また、・・・天然痘・・・に、何も対策を打てずにいた幕府に先駆けて、オランダから牛痘ワクチンを輸入し、長男の直大で試験した後、大坂の緒方洪庵にも分け与えている。このことが日本における天然痘の根絶に繋がった・・・。
 嘉永6年(1853年)、・・・ペリーが来航し、江戸幕府老中の阿部正弘が各大名に意見を募った時、斉正は<米国>の武力外交に対して強く攘夷論を唱え、品川台場建設に佐賀藩の技術を提供し、正弘より信頼を得た。一方で、開国以前から密貿易で利益を上げていたとされるほど貿易の重要性を知っており、<英国>の親善外交に対して開国論を主張する。
 文久元年(1861年)、48歳で隠居。家督を長男・直大に譲って閑叟と号した。
 文久2年(1862年)12月25日、上京した閑叟は関白近衛忠煕に面会し、京都守護職への任命を要請している。この時に閑叟は「長崎警備は他大名でも担当できるが、大阪・京都の警備には実力が必要であり、私であれば足軽30人と兵士20人の兵力で現状の警備を打ち破れる」旨の発言をしている。この件は他に島津藩などからの守護職要請もあり立ち消えとなった。
 ・・・蘭学を「蘭癖大名」と呼ばれるまでに熱心に学び、他藩が近代化と財政難の板挟みで苦しむ中、財政再建と軍備の近代化に成功したが、盟友であった大老の井伊直弼が桜田門外の変で横死した後の、激動の中央政界では佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒され、参預会議や小御所会議などでの発言力を持て・・・なかったものの藩内における犠牲者を出さずに済んだ。
 鳥羽・伏見の戦いの時に上京中で藩主も家老も京都に不在だったため、薩摩藩からは佐賀征伐を主張する声が挙がったが、薩長(薩摩藩・長州藩)側が勝利に終わって以降は上京した佐賀藩も新政府軍に加わり、戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は大きかった。明治政府が近代化を推し進める上で、直正が育てた人材の活躍は大きく・・・、直正自身も議定に就任する。これらにより、討幕運動には不熱心であった佐賀藩であったが、薩長土肥の一角を担う事となった。明治元年(1868年)に直正と改名。
 廃藩置県に知藩事(大政奉還後の藩主)として最初に賛同したほか、明治2年(1869年)6月6日、蝦夷開拓総督を命ぜられ、・・・7月13日には初代開拓使長官に就任したが、蝦夷地へ赴任することなく、8月16日に岩倉具視と同じ大納言に転任した。財政基盤が弱かった新政府に代わり、旧幕府軍との戦いの褒賞を割って開拓費用に当て、諸藩に先んじて佐賀藩の民を移住させたほか、満州開拓、オーストラリアでの鉱山開発などを提言するなど、以後50年先に待ち受ける、外交、食料、資源などの問題を見通していた。・・・
 直正が明治維新が始まってから間もなくに世を去ったことも、肥前勢力が中央で薩長閥に比べて相対的に小さくなった一因でもある。直正の残した人材は、明治六年政変(征韓論政変)による江藤新平・副島種臣の下野や、続いて発生した佐賀の乱により、明治政府において直正の構想を十分に実現するまでには至らなかったとはいえ、日本が近代化していく中で極めて大きな役割を果たしていくことになった。島津斉彬に並びうる数少ない幕末期の名君とする評もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E7%9B%B4%E6%AD%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E5%8C%A1 ([]内)
 (注134)だてむねなり(1818~92年)。「伊予宇和島藩8代藩主。伯爵。大身旗本・山口直勝の次男・・・。正室は佐賀藩主・鍋島斉直の娘・益子。祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった人物<であったところ、宗城は、>・・・宇和島藩主・伊達宗紀の・・・養子とな<り、>・・・天保15年(1844年)、養父の隠居に伴い藩主に就任する。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手し<、更には、島津斉彬ら>・・・「四賢侯」<の一人として、>・・・老中首座・阿部正弘に幕政改革を訴えた<が、>・・・ 安政の大獄・・・により・・・一橋派<であった>・・・宗城は春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。
 養父の宗紀は隠居後に実子の宗徳を儲けており、宗城はこの宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を解かれて後は・・・島津久光と・・・交友関係を持ち、公武合体を推進した。文久3年(1863年)末には参預会議、慶応3年(1867年)には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間に終っている。・・・
 慶応3年(1867年)12月、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。しかし明治元年(1868年)に戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏・奥羽列藩同盟寄りであったので薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任した。
 明治2年(1869年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のため<英国>からの借款を取り付けた。明治4年(1871年)には欽差全権大臣として清の全権李鴻章との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%AE%97%E5%9F%8E
 (注135)さなだゆきつら(1791~1852年)。「松平定信の長男として・・・生まれる。ただし、庶子であるために公的には次男とされた。文化12年(1815年)、松代藩7代藩主・真田幸専の養嗣子となった。翌文化13年(1816年)には・・・先々代の幸弘の娘が遠州浜松藩主・井上正甫に嫁いで生んだ雅姫を正室とした。
 文政6年(1823年)の幸専の隠居により家督を継ぎ、藩政を担当する。天保の改革が始まると水野忠邦によって外様席から譜代席に移され、老中に抜擢されて改革の一翼を担った。藩政においても佐久間象山をはじめとする有能な人材を多く登用して洋学の研究に当たらせ、幕末における人材の育成を行った。また殖産興業、産業開発、文武奨励などにも努め、藩校としては文武学校開設の基礎を築いている。 1832年(天保3年)には産物会所を設置した・・・また文人としても優れ、画や和歌に秀逸<な>作品を数多く残した。しかし晩年には藩政改革の路線を巡る対立から重臣達による内紛を招き、これが幕末まで尾を引いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E8%B2%AB

⇒脱線ですが、薩長土肥のうちの薩摩の島津齋彬と肥前の鍋島直正が従兄弟であったこと、そして、齋彬と共に幕末の四賢侯の一人とされた伊達宗城がこの直正と義兄弟であったこと、には、これまで、全く気付きませんでした。
 彼らの相互協力は、この諸関係抜きには十全には理解できないな、と思った次第です。
 また、維新期における、直正と宗城の不決断については、徳川家の、前者は二重の姻族であった、後者は大身幕臣の出自であった、という事実も無視できなさそうだ、ということにも、今、初めて思い至りました。
 犬も歩けば棒に当たる、といったところですね。(太田)

(続く)