太田述正コラム#9815(2018.5.10)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その63)>(2018.8.24公開)

 「天保15(弘化元)年にもたらされた前述のオランダの国書<における、>・・・(A)産業革命後の世界環境変動<・・>蒸気機関・・・の原動機を利用した「蒸気船」<(注147)>の発明以来、世界は一変し、地理上の距離に拘わらず相互に和親を結び修好するようになった<・・>の告知、(B)変化に即応した政策立案・法律施策の必要、(C)対外貿易の意義説明という「開国」勧告の論理立ては、<ペリーの>アメリカ国書のそれとも重なるものである。・・・

 (注137)「ロバート・フルトンは、外輪式蒸気船「クラーモント号」を開発し、1807年8月17日にハドソン川で乗客を乗せた試運転に成功したことでも知られている。このため、一般には(実用的な乗り物としての)蒸気船を発明したのはフルトンだという印象が定着している。・・・
 商船は早い段階で外輪・・・蒸気船(パドル・スチーマー)へと替わって行ったが、・・・軍艦の大型艦に蒸気機関が採用されたのは・・・遅<れ>た。19世紀初頭において、海戦の主力は戦列艦とフリゲートであった。・・・フリゲート<の場合、>・・・舷側の目立つ場所に大きく露出した脆弱な外輪は、敵の攻撃を少しでも受ければ容易に被害を受けて艦の推進手段を失うと考えられたことや、当時の戦列艦を含めフリゲートの有力な攻撃手段であった乾舷に大砲の砲門を設ける余地が、大きな外輪によって限られることを嫌ったことである。
 ・・・汽走フリゲートが普及するのは、蒸気機関そのものの性能向上やスクリュー・プロペラの実用性が一般に認められてからとなった。
 しかし、アヘン戦争、それに続くアロー戦争での白河遡行や第3次ビルマ戦争 (Third Anglo-Burmese War) では、河川や近海という条件に恵まれたため、蒸気船の優位が証明された。これにより、兵員輸送船、河船や小型砲艦の汽船化が主力艦に先立って普及した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B8%E6%B0%97%E8%88%B9
 「帆船時代のフリゲートは、戦列艦よりも小型・高速の艦を指し、艦隊決戦の戦列には加わらず、・・・哨戒・通報や船団護衛・通商破壊、海外派遣などで活躍した。この艦は後に巡洋艦へと発展していった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88
 「戦列艦(・・・ship of the line)は17世紀から19世紀にかけて<欧州>諸国で使用された軍艦の一種。単縦陣の戦列 (line of battle)を作って砲撃戦を行うことを主目的としていたのでこの名がある。
 戦列艦の定義は運用組織や時代によって変化するが、概ね木造で非装甲の大砲を50門以上搭載した3本マストの帆船のことであった。時代の経過とともに次第に大型化し、搭載門数が増えていったが戦列艦の基本的な配置は1850年ごろまで変化しなかった。その後蒸気推進の戦列艦が登場するが、10年程度で本格的な装甲艦が登場し、戦列艦に替わって海戦の主役になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%88%97%E8%89%A6

 <この時期、>日本の対外方針決定を専断によって行うのか、それとも公議(衆議)によって決するのかという、維新期まで継続する相反する議論が萌芽的にみられた。
 すなわち前者は、衆議制を採るゆえの対外方針決定の遅延を危惧し、大権掌握するごく少数の幕閣・その他の迅速な政治決断と指導力(リーダーシップ)発揮を求める意見である。
 それに対して後者は、早期決定を求めながらも、施策の形成段階から言路洞開して広範に自由な意見を提出させ、時間をかけて国内諸勢力の意思統一をはかろうとする。
 その過程でより有効な選択肢を選定し、状況に応じてそのなかから政策を策定し、またそれを担う優秀で多用な人材登用を求める。・・・

⇒欧米諸国に話を限定しますが、17世紀に、蘭、英、西/葡、との(事実上の国交を含む)交易を蘭一本に限定した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
際に、幕府は公議に諮ることなく専断で行った以上、この限定を解除するかどうかの決定も、幕府は、当然、公議に諮ることなく専断で行わなければ権威を失墜するのは必至だったというのに、諮ってしまったわけですが、その前に、幕閣内でいかなる議論があり理屈が立てらたのか、或いは議論さえなかったのか、を、眞壁には追求して欲しかったところです。
 それはそれとして、諮ったことの是非について白紙的に論じれば、対外方針決定なるものは、この場合、まさにそうであったように、対外政治軍事方針決定、すなわち、広義の軍事なのであり、狭義の軍事同様、「迅速な・・・決断と指導力・・・発揮」が、秘密保全の要請と共に求められる・・なぜかは、ここで改めての説明はしない・・のであって、本来的に、公議によって決するようなことがあってはならないのです。(太田)

 <実際、>答申は登庸のための人材把握を結果として生んだといえる。
 よく知られているように、蘭学塾を開き蘭書・西洋兵術を講じた勝鱗太郎(海舟、小普請組松平美作守支配)は、この7月にあげた上書が契機となって閣老に認められ、安政2年1月18日に異国応接掛手附蘭書翻訳御用を拝命して、洋学所創設を担当した。」(362~363、371、404)

⇒勝海舟は、剣術、禅、山鹿流、(西洋兵学を含む)蘭学、と随分修行と勉強に励んでいますが、昌平坂学問所で学んだ形跡はなく、従って、学問吟味も受けていなかったはずであり、
https://www.youtube.com/watch?v=XD4d4jOwvRQ
彼がこのような形で登用されたことは、行政官候補教育・選抜の任にあたっていたはずの同学問所が機能していなかったことを示しているとも言えるわけですが、眞壁は、しれっとそのことをスルーしてしまっています。(太田)

(続く)