太田述正コラム#9823(2018.5.14)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その67)>(2018.8.28公開)

 「第二には、徳川齋昭の「海防愚存」の「文武学校」をめぐる諮問の際に上げられた、勘定奉行(勘定吟味役江川英龍<(コラム#5366、0770、9799、9807)>執筆とされる)の答申がある。
 そこでは、現在の「昌平坂学問所」が批判され、「書物讀ニ実用少」とされた上で、「夷國之風俗人情を詳ニ相辨」じるために、「蘭学之軍學・砲術を第一ニして、多く翻訳被仰付」ることが「學問中之急務」と提案されている。

⇒眞壁の記述の範囲で言えば、江川英龍の建議内容は、(眞壁は簡単な紹介にとどめていますが、)勝海舟のそれと酷似している印象があります。
 当時の幕臣中の上澄み達の物の考え方は、この2人のように、蘭学まで齧ってはいた場合であっても、何ともお粗末な限りです。
 これは、そういった物の考え方をするのが、当時の「気鋭の」幕臣達の間での「空気」であった、ということなのでしょう。(太田)

 さらに洋学所設立の素案になったものと指摘される第三の建議は、老中阿部正弘による幕政改革三七ヶ条中の<もの>である。・・・
 外交専務の「海防局」とそれに付随する「一局」の提案は、・・・第二七・二八条に含まれている。・・・

⇒老中首座名での建議となれば、(書かれていた部局の名称こそ変更されたようですが、)その内容に沿って洋学所が設置されたはずですから、眞壁は紹介していますが、建議段階のものの内容を取り上げるのは止めておきましょう。(太田)
 
 <以上の三つの>ほかに、謹堂の・・・安政元<(1854)>年・・・8月<の>・・・洋学建白を加えることができる。・・・
 <しかし、その>謹堂は、異国応接掛<(注146)>の他の4名が「蠻書翻訳御用」に任じられているにも拘わらず、おそらく意図的に「差次」すなわち区別してその人事から外された。

 (注146)ペリー来航の年の1853年に勝鱗太郎(海舟)は、「人材登用、下意上達の道を開くこと、海防整備、旗本の窮乏救済、兵制改革、貿易の利益を海防に充当させるなどの案を上申した。これに目をとめた異国応接掛・大久保忠寛(一翁)が海舟を推挙して、異国応接掛・手附蘭書翻訳御用・・・になった。これが海舟33歳の公的なデビューである。」
https://books.google.co.jp/books?id=yJhsHZXgx9gC&pg=PT110&lpg=PT110&dq=%E7%95%B0%E5%9B%BD%E5%BF%9C%E6%8E%A5%E6%8E%9B&source=bl&ots=GZVQmzAPYw&sig=-oZX5ii90DACaVdbT4iwELYkHR4&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwi99MLdh4LbAhWEoJQKHUNRCkkQ6AEIQTAI#v=onepage&q=%E7%95%B0%E5%9B%BD%E5%BF%9C%E6%8E%A5%E6%8E%9B&f=false
 大久保一翁(1818~88年)は、「旗本の・・・子として生まれる。
 第11代将軍・徳川家斉の小姓を勤め、・・・老中の阿部正弘に早くから見出されて安政元年(1854年)に目付・海防掛に任じられた。
 その後も意見書を提出した勝海舟を訪問してその能力を見出し、阿部正弘に推挙して登用させるなどしている。安政3年(1856年)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取などを歴任し、駿府町奉行・京都町奉行なども務めた。
 この頃、・・・将軍継嗣問題で対立があり、・・・安政の大獄で、忠寛は直弼から京都における志士の逮捕を命じられた。しかし忠寛は安政の大獄には否定的な考えであり、直弼の厳しすぎる処分に反対した。このため、直弼に疎まれるようになっていく。
 そして忠寛の部下に質の悪い者がおり、志士の逮捕で横暴を振るっているのを知って激怒した忠寛は、この部下を厳重に処罰したのだが、これが直弼から志士の逮捕を怠っているという理由にされて、奉行職を罷免させられた。
 桜田門外の変後の文久元年(1861年)、幕府より復帰を許されて再び幕政に参与する。そして外国奉行・大目付・御側御用取次などの要職を歴任した。
 政事総裁職となった松平慶永らとも交友し、第14代将軍・徳川家茂にも仕え、幕府が進める長州征伐(幕長戦争)に反対し、政権を朝廷に返還することを提案している。第15代将軍となった徳川慶喜にも大政奉還と、諸大名、特に雄藩を中心とした議会政治や公武合体を推進した。
 慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、若年寄・会計総裁に選出された。その後、新政府軍が江戸に向かって進撃してくると、勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸城の無血開城に尽力した。その後、徳川家達に従って駿河に移住し、駿府藩の藩政を担当した。
 明治政府では東京府の第5代知事、並びに政府の議会政治樹立などに協力した。・・・
 福澤諭吉と親交が深く、慶應義塾の維持資金借用を徳川家に相談しに行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E4%B8%80%E7%BF%81

⇒脱線ですが、今まで名前くらいしか知らなかった、小栗忠順やこの大久保一翁の事績を知り、幕末の幕府にも、傑出した人材が、少なくとも2名はいたことに驚いています。
 小栗は、勝と違って、山鹿流兵学だけではなく、儒学も勉強していますが、大久保については、何を学んだのか、ネット少しあたった限りでは分からなかったのが残念です。
 小栗も大久保も、大身の旗本の嫡男として生まれていて、こういった子弟は、学問吟味を受けるまでもなく、一定の出世は保証されているし、親が学業資金を十分出せることもあり、昌平坂学問所には入らなかった、ということなのでしょうか。
 (小栗と大久保の事実関係は、それぞれのウィキペディアによる。)(太田)

 そしてじっさいに、8月30日に洋学所頭取に任命されるまで彼は創設の統括者ではなく、設立の下準備は・・・蛮書翻訳御用手附組頭小田又蔵<(注147)>・勝鱗太郎、手附箕作阮甫・・・と筒井<◎渓>らの間で進められたのである。・・・

 (注147)1804~70年。「信濃・・・出身。・・・幕府の蕃書翻訳御用をつとめる。オランダから献上された電信機の取り扱いを研究・実験し,安政2年「和蘭(オランダ)貢献電信機実験顛末(てんまつ)書」をあらわした。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8F%88%E8%94%B5-1063519

 謹堂の排除の背景は推測するしかない。」(426)

⇒どちらも日本が作ったのですが、満州国の場合は、建国準備委員会に相当する東北行政委員会のメンバーに、執政(その後皇帝)となる溥儀も総理となる鄭孝胥も入っていなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
のに対し、インドネシアの場合は、独立準備委員会に、大統領となるスカルノも首相/副大統領となるハッタも入っていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%BA%96%E5%82%99%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%BF
 で、私が推測するならば、溥儀と(溥儀といわば一心同体であった)鄭孝胥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%AD%9D%E8%83%A5
はエラ過ぎたので、「雑事」に携わらせるわけにはいかなかったと思われるところ、謹堂の場合もそうだったのではないでしょうか。(太田)

(続く)

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