太田述正コラム#9833(2018.5.19)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その72)>(2018.9.2公開)

 「・・・下田でのロシア使節との外交交渉は、決して順調には運ばなかった。
 それは日本側の内部対立ばかりでなく、嘉永7(安政元)年11月4日の大地震と直後の津波により、ロシア使節にも艦船ディヤナ号破損と沈没の大惨事を生み、予想外の展開をみせた<(注159)>からでもある。

 (注159)「<下田での>交渉開始直後の1854年12月23日(嘉永7年11月4日)、安政東海地震が発生し下田一帯も大きな被害を受け、ディアナ号も津波により大破し、乗組員にも死傷者が出たため、交渉は中断せざるを得なかった。津波の混乱の中、プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し、船医が看護している。この事は幕府関係者らにも好印象を与えた。
 プチャーチンは艦の修理を幕府に要請、交渉の結果、伊豆の戸田村(へだむら、現沼津市)がその修理地と決定し、ディアナ号は応急修理をすると戸田港へ向かった。しかしその途中、1855年1月15日(安政元年11月27日)、宮島村(現富士市)付近で強い風波により浸水し航行不能となった。乗組員は周囲の村人の救助もあり無事だったが、ディアナ号は漁船数十艘により曳航を試みるも沈没してしまう。プチャーチン一行は戸田に滞在し、幕府から代わりの船の建造の許可を得て、ディアナ号にあった他の船の設計図を元にロシア人指導の下、日本の船大工により代船の建造が開始された。
 1855年1月1日(嘉永7年11月13日)、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、2月7日(安政元年12月21日)、プチャーチンは遂に日露和親条約の締結に成功する。
 1855年4月26日(安政2年3月10日)に約3ヶ月の突貫工事で代船が完成、戸田村民の好意に感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名した。ヘダ号は60人乗りで、プチャーチン一行が全て乗船することが出来ない大きさであったため、プチャーチンは下田に入港していた<米>船を雇い、前月に159名の部下をペトロパブロフスク・カムチャツキーへ先発させていた。ヘダ号完成後の5月8日(安政2年3月22日)、プチャーチンは部下47名と共にヘダ号に乗り、ペトロパブロフスクに向けて出港した。5月21日、ペトロパブロフスクに入港したが、<クリミア戦争中だったが、>既に英仏連合軍は撃退されロシア軍の防衛隊も退却に成功していたため・・・、さらに航海を続け、宗谷海峡を通って、6月20日にニコラエフスクに辿り着いた。同地から陸路を進み、11月にペテルブルクに帰還を果たした。
 同年7月には残りの乗組員300名程がドイツ船でロシア領を目指したが、途中で<英>船に拿捕され捕虜となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3
 「日本側が資材や作業員などを提供、支援の代償として完成した<代>船は帰国後には日本側へ<無償(? 太田)>譲渡する契約となった。幕府は、韮山代官の江川英龍・・・と勘定奉行の川路聖謨を<建造の>日本側の責任者に任命している。・・・洋式造船技術習得の好機と見た幕府は、「ヘダ」の建造許可のわずか15日後の1855年2月8日(安政元年12月22日)には、川路聖謨に対して同型船1隻の戸田での建造を指示した。後に佐賀藩、水戸藩等も技術習得のため、幕府の許可を得て藩士を派遣している。その後「ヘダ」が無事に進水すると、同年5月6日(安政2年3月20日)には1隻の追加建造を命令。同年6月6日(安政2年4月22日)にも2隻の追加を指示。同年9月16日(安政2年8月6日)には、戸田でさらに3隻のほか、石川島造船所でも4隻の建造を命じた。戸田製の6隻は1856年1月頃(安政2年12月)までには完成している。これらの同型スクーナーを、幕府は1856年5月29日(安政3年4月26日)に・・・戸田村が属した君沢郡に由来する・・・「君沢形」と命名した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E6%B2%A2%E5%BD%A2

⇒(前にも記したことがあるはずですが、)私は、中高時代、毎夏を、今は亡き叔父の真珠養殖場のあった、西伊豆の西浦木負・・戸田の近くで、どちらも沼津市内・・で海水浴と読書をして過ごしたので、懐かしく思い、上記挿話を詳しく紹介しました。(太田)

 だが、謹堂の日記によれば、それでもなお幕臣陣営内部での勘定系と目付系との党派的反目が続く。
 <彼は、>対外政策の「国是」が早期に決定しない最大の理由は、勘定系と目付系の「仇敵の如」く張り合う組織的な「黨」派対立にある<、とも記している。>

⇒謹堂の妄想は膨らむ一方だったようですね。
 「対外政策の「国是」が早期に決定しない最大の理由は」、自業自得であったところの、幕府の無能、及び、退廃、にあったことが分からないほど、謹堂自身が無能、退廃していた、ということです。(太田)

 そのような認識が、幕臣間での当時の一般的な認識であった。

⇒こんな重要な記述に、眞壁は、典拠を付けていません!
 付けられるわけがありませんが・・。(太田)
 
 しかし、各管轄部署の割拠的な党派対立は、それだけにはとどまらず、謹堂は、勘定系と、現地を統括する浦賀・下田奉行(後者は嘉永7年3月24日に新設)との間にも確執があると記している。・・・
 しかも、その確執は・・・井澤政義<(注160)>・・・と川路の個人的な人間対立だけではなく、それぞれの所属幕臣たち、すなわち遠国奉行計官吏と応接掛の官吏、特に勘定系役人との間にも軋轢を生んでいた。」(463~464)

 (注160)?~1864年。3,000石以上の上級旗本の嫡男。「天保3年(1832年)・・・に中奥小姓となり、天保6年(1835年)に・・・小普請支配となる。天保10年(1839年)・・・浦賀奉行となり・・・天保13年(1842年)・・・に長崎奉行に転任<するも、同年・・・に<必ずしも彼の責任とは言えない不祥事により>長崎奉行を罷免、江戸へ戻り・・・江戸城西丸留守居に左遷され、翌弘化3年(1846年)・・・に留守居も罷免され・・・た。
 嘉永6年(1853年)・・・ペリー・・・来航後に浦賀奉行に再任され、翌安政元年(1854年)・・・全権委員の1人として日米和親条約に調印をした。同年に下田奉行となり・・・同職の都築峯重と共に<米>使節アダムスと日米和親条約付録(下田追加条約)についても調印。同年に下田港に来航した・・・プチャーチンの交渉に当たっていた露使応接掛筒井政憲・川路聖謨の補佐役にも従事した。
 安政2年(1855年)・・・に普請奉行となり、安政3年(1856年)9月15日に大目付服忌令分限帳改、安政4年(1857年)12月28日に南町奉行となり、安政5年(1858年)・・・には大目付宗門改に再任、神奈川開港を前に取調掛として外国奉行の補佐も行った。文久3年(1863年)・・・に江戸城留守居となり、洒々落々な余生を送った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%B2%A2%E6%94%BF%E7%BE%A9

⇒井澤は、上級旗本の嫡男という、超キャリアだったので、ノンキャリの川路よりも登用年次では10年超も後輩であったにもかかわらず、同じ格式1000石の遠国奉行であるところの、浦賀奉行(1回目)に就いたのは、川路が佐渡奉行に就いた天保11年(1840年)より、1年早い天保10年(1839年)だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E8%B7%AF%E8%81%96%E8%AC%A8 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B8%A1%E5%A5%89%E8%A1%8C
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%A6%E8%B3%80%E5%A5%89%E8%A1%8C-35280 及び「注160」)
というのに、自分が10年以上も干されている間に、川路に出世レースで大差がついただけでなく、その「部下」にまでされてしまった、というのですから、荒尾成允よりも、むしろ、井澤の方が、川路に対して含むところが大きかったとしても不思議はないのであって、「確執」があったとすれば、その原因は(眞壁が謹堂等の言うことを鵜呑みにして指摘しているようなところにではなく)そこにあったに相違ない、と私は見ています。
 なお、交渉等に当たらせる真の全権にもう一人目付(監視役)たる全権を付けるというやり口は、その後のスターリン主義の政権等と同じであり、この二人が相互牽制をすることによって、部下達が間違っても最高権力者の意図に反する言動をとらないようにするのが狙いの「前近代的」なやり口なのであって、眞壁が、私に言わせればより重要な、この点をスルーしているのは残念です。(太田)

(続く)