太田述正コラム#9849(2018.5.27)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その80)>(2018.9.10公開)

 「・・・<私(眞壁)は、>近代日本の「儒教」評価の桎梏から対象を解き放<ちたかった。>・・・

⇒「幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山が歴史上おり、革命運動(大塩平八郎–大塩平八郎の乱)に身を挺する者が多かった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6
といったことは、教科書レベルをそれほど超えない常識であることから、眞壁は、ここでは、「儒教」をせめて「朱子学」と限定すべきでした。(太田)

 儒者たち・・・が、現実政治とは没交渉に学統派ごとの哲学や形而上学的な政治論だけを述べていた儒者としてではなく、自らも「儒吏」として藩政の具体的な意思形成に関与し、他方で教育を通して時代を担う「儒吏」群の再生産を担当する姿が浮かび上がってきた。・・・

⇒前段に言う、「儒者たち・・・が・・・「儒吏」として藩政の具体的な意思形成に関与し」たことの「証明」に、眞壁は成功していないし、そもそも、そんな試みは無理筋である、と、私は、このシリーズで一貫して指摘してきたわけです。(太田)

 官吏選抜と人材育成<という>・・・目的実現のために組織化された教育機関である藩校や学問所が相次いで設立され<た。>・・・

⇒眞壁は、当然、昌平坂学問所を「学問所」の代表格としているわけですが、こういう形で、全部を一括りにしてはならない、ということを、ご承知のように、私は、前回のオフ会「講演」(コラム#9692)で、強く訴えたところです。(太田)

 寛政改革<(寛政の改革)(注181)(コラム#52、614、1617、4170、5358、5362、5366、6936、8058、8070、9069、9077、9653、9667、9719、9749、9721、9801)>のなかで課題とされたのは、「諸役人」の「風俗」刷新という官吏の<社会的適性化>であり、またそれと同時に課題となる、人材推挙という〈選別化〉であった。

 (注181)「白河藩主として飢饉対策に成功した<ところの、8代将軍徳川吉宗の孫にあたり、父は吉宗の次男・田安宗武で第9代将軍徳川家重の弟である、>・・・松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われた幕政改革・・・
 役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9

 〈選別化〉が、番入り選考の復活として「文武」による吟味が企画されるなかで、その「文」の〈選別〉、すなわち学問吟味の標準となる経書註釈を特定する必要から、当時東アジア諸地域の標準学問でもあった「宋学」が採用された。・・・

⇒ここでもまた眞壁には申し訳ないけれど、「注181」の中に出てくる寛政改革についての厳しい総括は、簡にして要を得ていると私は考えているところ、その最大の失策は、「文武」ではなく「文」のみによる幕臣教育・選抜機関である昌平坂学問所の設立なのであって、これこそが、1世紀弱後の幕府の瓦解、というか、幕臣達を主たる担い手とする富国強兵政策遂行の不可能化、を決定づけた、と私は思っている次第です。(太田)

 <しかし、>徳川体制への順応を直接的に促進させる教育内容は見られない。
 まして、具体的に体制への忠誠宣誓を確認する吟味は行われていない。
 ・・・<すなわち、それは、>体制秩序への無批判の順応を促進し、政治判断の際に画一的思考を培養するもので<は>なかった<のだ。>」(494、496~497)

⇒仮にそのようなイメージが寛政異学の禁や昌平坂学問所について、一般に抱かれているとして、それらが、そのようなものを意図するものでは必ずしもなかったことは、眞壁の言う通りですが、繰り返しになりますが、最大の問題は別のところ・・「武」の等閑視・・にあった、ということです。(太田)

(続く)