太田述正コラム#9851(2018.5.28)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その81)>(2018.9.11公開)

 「・・・安政3<(1856)>年の学問吟味の「時務策」<の>出題<は次の通り。>
 夷人の交易ハ、我國に益なし、是を許せハ、國家の疲弊となり、許さヽれハ、諸蕃一致し、兵力ヲ以て吾許否ヲ決せんとす。いかヽに所置すへきや」。
 「利を求るハ、商賣の所為なれとも、國家多事災害も打續きたる節は、士大夫追々困窮に及ひ、商賣はます〈其利を得、遂にハ其勢貴賤倒置にも成行なく、此弊を救んには、如何いたし宜かるへきや」。・・・

⇒出題者側自身が、解答を求めて呻吟していたであろうようなことを出題してどうするんだ、と思われるかもしれませんが、結論そのものよりは、その結論に至る思考過程の鋭さや論理性を見るためだとすれば、このどちらも良問であり、こういった設問形式は、私の知る限り、それ以前からのものなのですから、昌平坂学問所での教育研究はともかくとして、同学問所が実施した学問吟味の方は、なかなかの優れものであった、というのが、以前から(コラム#省略)の私の感想です。
 ただ、「夷人の交易ハ、我國に益なし」という命題そのものについて、疑問を投げかけたり、論駁を行ったりした受験生がいたとして、採点者がどう採点したのか、或いは、それだけで落第点を付けたのか、知りたいところです。(太田)

 たとえば、幕末の昌平坂学問所で学んだ大内晃陽<(注182)>は、欧州に渡り西洋経験によって転向し、「生れ變りて歸朝し來れる」外国奉行池田長発<(注183)>(ながおき)(可軒、1837~79)の説を聴いて、初めて「通商和親の大効盆を悟了」した。

 (注182)不明。
 (注183)「幕府直参旗本の池田長休の四男として江戸に生まれ、井原領主・池田長溥の養子となった。少年時代は昌平黌に学び、成績は抜群に優秀だった。長発の領地は1,200石と小さく、最初は小普請組から身を起こしたが、文久2年(1862年)には目付、同3年(1863年)には火付盗賊改・京都町奉行と歴任し、同年9月に対外交渉を行う外国奉行に抜擢された。官位を叙され筑後守を称したのはこの時期である。
 当時は攘夷論が強く、この年の3月には孝明天皇が攘夷勅命を発し、さらに下関戦争や薩英戦争等が起きて諸外国との軋轢も高まっていた。長発が外国奉行に就任した直後の10月、攘夷派とみられる浪人3人が横浜近郊でフランス軍士官を殺害する井土ヶ谷事件が起きたが、その犯人は結局見つからなかった。幕府は、事件に対するフランス側の非難と国内の攘夷圧力の両方に押され、事件の解決・謝罪、および横浜鎖港(朝廷や攘夷派を懐柔すべく開港場だった横浜を再度閉鎖する)の交渉に当たらせるため、・・・長発は27歳にして、34名からなる遣欧使節団(第二回遣欧使節<・・前回のは、文久遣欧使節(コラム#9843)・・>、または横浜鎖港談判使節団)を正使として率いることとなり、1863年12月にフランス軍の軍艦ル・モンジュ号で日本を出た。上海やインド等を経由し、スエズからは陸路でカイロへ向かい、途中ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学し写真を撮っている。
 元治元年(1864年)3月、マルセイユに入港してパリに着いた一行は皇帝ナポレオン3世に謁見し、フランス政府に事件を謝罪し、195,000フランの扶助金を遺族に支払った。パリのグランドホテルに滞在した一行は・・・シーボルトにも会っている。
 しかし横浜の鎖港に関する交渉は、横浜を対日貿易・交渉の拠点と考えるフランスの抵抗にあい失敗に終わった。また長発自身も西欧の文明の強大さを認識して開国の重要性を感じ、交渉を途中で打ち切り、フランス政府とパリ約定を結んだ。一行は他の国には寄らずそのまま帰路に就き、同年暮れに帰国した。この時長発は、物理学、生物学、工業、繊維、農業、醸造等多数の書物や資料をフランスから持ち帰っている。
 長発は帰国後、開国の重要性を力説したが、幕府はパリ約定を破棄、長発の石高を半分に減らし蟄居を命ずる等の罰を与えた。長発は隠居して、実兄・池田長顕の五男で養子の長春に家督を譲った。慶応3年(1867年)には一転して罪を許され軍艦奉行並となったが、健康を害していたため数カ月で職を辞して井原に戻り、以後政治にはかかわらなかった。井原に学問所を作り青少年を育てることを構想していたが、明治12年(1879年)に没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%99%BA

 文久3年から元治元年まで横浜鎖港談判のために第二回の遣欧使節の正使としてパリへ渡った池田は、帰国して彼に次のように語ったと云う。
 「通商貿易は社會の通理なり、交際は人間天賦の特性なり。
 此道理・特性を棄却せば、取りも直さず自身が人間の資格を破壊するなり」。
 大内は応えて「予が平生脳裡に蟠屈しつ丶ありし井蛙的見解は此の時に於て釋然として氷解せり。
 人は交際的の動物なりとは此時始て知りしなり」と記す。

⇒この2人は、昌平坂学問所で、下掲のようなドグマを教えられ、それを信じていた、ということです。
 「中国では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」が重視されてきた。商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると考えたのである。これを理論化したのが、孔子の儒教である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86
 「江戸時代中期頃になると貨幣経済や産業の発達により商人が政治、経済に大きな影響力を持つようになり、大名貸のように武士が経済的に商人に依存するようになった・・・ため商人には町人でありながら扶持米や士分など武士身分並の待遇が与えられる者もいた」(上掲)にもかかわらず・・。(太田)

 しかし、その後の19世紀後半世界分割という19世紀半ばの◎庵の状況認識は、それほどに的をはずしたものと言えようか。」(498~499)

(続く)