太田述正コラム#646(2005.3.2)
<日立製作所(その1)>
1 始めに
 私はかつて佐世保重工業(SSK)をとりあげたことがあります(コラム#44、45、
85、86)。
 SSKが地方有力企業の一つだったとすれば、日立製作所(以下、「日立」とい
う)は日本を代表する大企業の一つです。
 これだけの大企業になると、(グループ企業も入れればなおさら)その全体を
取り上げるのは私の力に余ります。そこで、たまたま二度にわたって私自身が濃
密な関わりを持った日立のIT部門に焦点をしぼってとりあげることにしました。
 SSKに関するシリーズは、「SSKが転落の一途をたどり、会社ぐるみの公金横領
事件が露見して天下に醜態をさら」(コラム#86)した後で発表したものであ
り、SSKを厳しく批判した内容であったにもかかわらず、何のお咎めもありませ
んでした。
 しかし、今回のシリーズは、まだ会社ぐるみの刑事事件を起こしたわけではな
く、破綻したわけでもない日立という会社(の一部門)(注1)を厳しく批判す
るものであり、相当のリスクが伴います。
 (注1)もっとも、日立のIT部門は、1982年にIBM産業スパイ事件を引き起こし
ている。(その背景については、http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-oga/jcomhist/ron-b.htmを参照。)
 しかし、私が負うリスクよりも、私の文章によって、心ある日立社員や同じよ
うな問題を抱える日本の大企業の心ある社員が多少なりとも覚醒し、その結果会
社ぐるみの刑事事件や会社の破綻が少しでも回避されるならば、そのメリットの
方がはるかに大きい、と判断しました。大企業は国の公器だからです。
 皆さんからの掲示板(http://9120.teacup.com/ohtan/bbs)へ
の投稿とメールをお待ちしています。(本シリーズに関して届いたメールについ
ては、ここ数回、コラム末尾に添付してきたメール公開ルールは凍結することと
し、いかなる形でも公開いたしません。)
2 日立IT部門との最初の関わり
 私と日立IT部門との最初の濃密な関わりについては、拙著「防衛庁再生宣言」
(日本評論社2001年)の中で取り上げています。
 しかし、本の中では、会社名や製品名を隠していたので、この際、オープンに
した上で、ごく簡単にこの最初の関わりを振り返ることにしましょう。(詳しく
は、拙著21~30頁参照(注2)。)
 (注2)拙著中の「伏せ字」解題・・A:ロータス・ノーツ(IBM製グループウェ
ア)、A’:ノーツ・ドミノ(IBM製グループウェア)、B:グループマックス(日
立製グループウェア)、a:IBM、b:日立。
 20世紀が終わろうとしていた頃、防衛庁では遅ればせながら、六本木から市ヶ
谷への庁舎の移転時期に合わせ、内局・統幕・陸海空幕等の各機関を網羅した行
政系のコンピューター・ネットワーク・システム(庁OA)を構築しようとしていた。
 しかし、OSとアプリケーションソフトについては、統一されたものの、グルー
プウェア(庁OAを通じて共同作業をするためのソフト)は、各機関が自由に選択
できることと決定された。
 そこに、私が担当官房審議官として着任し、この決定を覆し、グループマック
スより費用対効果上優れているロータス・ノーツ(以下、「ノーツ」という)で
統一しようとしたところ、お膝元の内局等から激しい反対を受けた。
 実は、内局は既にグループマックスを選択した上で、内局限りの庁OAを試行的
に立ち上げており、今更ノーツに代えたくない、というわけだ。
 内局がグループマックスを選択した背景は次のようなものだった。
 ロータス・ノーツは、(日立を含め)色々な会社が販売しているので競争があ
るが、グループマックスは日立だけが販売しているので、日立はグループマック
スを採用させれば受注を独占できた。ところが、陸海空のうちの一つの幕は、兵
站系システムでノーツをかねてから採用しており、このシステムとの整合性の観
点からグループマックスを自分の幕で採用することには絶対反対だった。そこで
日立は、庁OA試行に向けてグループウェアを選定中であった内局のIT担当部局
が、IT音痴に近かった(?!)ことを奇貨として、言葉巧みに内局にグループマッ
クスを採用させようと図った(注3)。内局がグループマックスを採用すれば、
統幕も施設庁も同じグループウェアを自動的に採用することになっていたし、他
の機関もグループマックスを採用する可能性があった。
 (注3)内局側が悪いことは重々承知しつつも、私は自分の部屋に、日立のIT
担当者達に来てもらい、「困ったことをしてくれましたね」とクレームをつけた
ものだ。
 内局のIT担当部局には、ノーツ以外は見向きもしない上記幕から派遣された自
衛官が勤務しており、この自衛官は、IT担当部局内の殆ど唯一のIT通であり、彼
もまた、熱心にグループマックスの採用を主張したため、結局内局はグループ
マックスを採用した。この自衛官は、出身母体の幕の意向を忖度して、あえて内
局にグループマックスを採用させ、内局と自分の出身幕との間のネットワークを
介した情報交換を困難にしようとしたフシがある(注4)。
 (注4)哀しいことだが、防衛庁における背広組と制服組の反目にはすさまじ
いものがある。
 さて、最も権限のある内局の猛反対にあって、私の主張が通らないまま、一年
後、私は東北地方を所管する施設局長として仙台に赴任した。
 ところが、事態はその後、意外な展開をみせる。
(続く)