太田述正コラム#9857(2018.5.31)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その1)>(2018.9.14公開)

1 始めに

 次回のオフ会「講演」のネタの一つとして、『島津斉彬言行録』を読んだ時から、大昔に買って、頁を繰っただけで、面白くなさそうだとツン読のままであった、『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』(岩波文庫)に改めて目を通してみました。
 その感想を記そうと思います。

2 刊行まで

 「<西郷>『南洲翁遺訓』は旧出羽庄内藩の関係者が西郷から聞いた話をまとめたものである。
 1867年(慶応3年)12月9日の王政復古の大号令の後に、<在京の>西郷は・・・芝三田の薩摩藩邸に浪人を集めて、江戸市中の治安を攪乱させた。庄内藩は、江戸の警備組織新徴組<(注1)>を預かり、江戸市中の警備を担当していた。

 (注1)「新選組と新徴組の誕生のきっかけとなったのは、出羽庄内の志士・清河八郎が考案した浪士組結成による・・・。
 文久3(1863)年1月、幕府によって募集された浪士組は、表向きは将軍上洛のための警護兵としての役目を背負うものであったが、清河の本心は別のところにあった。清河は、幕府の力を使って結成した浪士組を尊皇攘夷を目的とする反幕勢力に変化させようとの策略を持っていたのである。
 江戸で集まった浪士組は総勢234名であったが、彼らが京に到着すると、清河は・・・浪士達の代表を集め、その秘めたる策略を演説し、それに同意を求めた。この清河の独断行動に反感を持ったのが、近藤勇や芹沢鴨といった13名の人物で、彼らは清河と袂を分かち、後にこの集団が「新選組」に変化することになる。
 一方清河に率いられた残りの浪士組は、幕府の命令により江戸に戻ることになったが、清河はそのことを逆手に取り、幕府に攘夷実行を迫る工作を続けていたのだが、江戸に戻った清河は、文久3(1863)年4月13日、幕臣の佐々木只三郎の手によって暗殺されたのである。
 清河という首領を失った浪士組はそのため宙に浮く存在となったが、清河が暗殺されてから二日後の4月15日、幕府は浪士組を「新徴組」と改称し、彼らを庄内藩酒井家に預けることに決定した。・・・
 新徴組が庄内藩の預かりとなった当時、組士は総勢で169名もいたのだが、当初は彼らにこれと言った仕事もなく、給金なども少なかったため、組から脱走する者や、中には江戸の商家に押し入り、金品などを強奪する者も生じたりしたため、新徴組の存在自体が危ういものになっていた。
 しかし、文久3(1863)年10月26日、江戸の治安悪化を憂慮した幕府が、庄内藩ら十三藩に対し、江戸市中警護の命令を下すと状況が一変し、新徴組は再び歴史の表舞台に登場することになる。
 庄内藩は江戸市中警護の主力として、新徴組をその任務にあてることにした。・・・
 この庄内藩新徴組の江戸市中警護が非常によく行き届いたものであったので、当時の江戸の人々は、次のように囃し立てた・・・。
 「酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡」
 「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/bakumatsu10.htm

 そのため、薩摩藩邸の浪人と庄内藩士は対立し、浪人が庄内藩邸に発砲する事件が発生した。そして、同年12月25日[(1868年1月19日)]に庄内藩を中心とする旧幕府側が薩摩藩邸を焼き討ちする事件<(注2)>に発展した。

 (注2)「<薩摩藩は、>放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。・・・
 <旧幕府は、>12月24日(1868年1月18日)、庄内藩江戸邸の留守役・・・に「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下す。・・・庄内藩に加え、上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩と、庄内藩の支藩である出羽松山藩が参加。・・・
 焼き討ちによる死者は、薩摩藩邸使用人や浪士が64人、旧幕府側では上山藩<や>庄内藩・・・11人であった。また、捕縛された浪士たちは112人におよんだ・・・
 事件の詳細が大坂城の徳川家の幹部の元へ伝わったのは12月28日(1868年1月22日)<だったが、>・・・伝えられた。老中板倉勝静と前将軍徳川慶喜は沸きあがる「薩摩討つべし」の声を抑えることができず、薩摩藩の目論見どおり旧幕府は討薩への意志を固める。・・・
 旧幕府は朝廷へと討薩を上表し、慶応4年1月(1868年2月)、軍を編成して京都に向けて進軍を開始した。この京都の薩摩兵への攻撃は、その後戊辰戦争へと繋がっていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E9%82%B8%E3%81%AE%E7%84%BC%E8%A8%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 1868年(慶応4年)・・・東北戦争で・・・庄内藩は官軍を撃退したが、奥羽越列藩同盟の崩壊に伴い戦闘を続けられなくなり、9月26日に降伏した。
 庄内藩士は、降伏に伴い、薩摩藩邸焼き討ち事件や東北戦争における戦闘を咎められて厳しい処分が下されると予想していたが、予想外に寛大な処置が施された。この寛大な処置は、西郷の指示によるものであったことが伝わると、西郷の名声は庄内に広まった。
 1870年(明治3年)8月、旧庄内藩主の酒井忠篤<(注3)>は<旧藩士2名>を鹿児島に派遣し、旧薩摩藩主の島津忠義と西郷に書簡を送った。

 (注3)1853~1915年。「9代藩主・酒井忠発の五男として生まれる。文久2年(1862年)、義兄で10代藩主の酒井忠寛が死去したため、その養子として跡を継ぐ。・・・
 明治4年(1871年)7月に兵部省に出仕し、明治5年(1872年)2月に陸軍少佐に任じられ・・・<辞任の上、>4月からは軍制研究のためにドイツに留学し、明治12年(1879年)6月に帰国した<が、>その間、明治10年4月、陸軍中尉に<(再)>任官する。明治13年(1880年)・・・4月、陸軍歩兵中尉<で陸軍を>辞任する。明治14年(1881年)に鶴岡へ帰っている。明治17年(1884年)7月に華族令によって伯爵となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E7%AF%A4_(%E5%BA%84%E5%86%85%E8%97%A9%E4%B8%BB)

 同年11月7日、酒井忠篤は旧藩士などから成る78名を従えて、鹿児島に入った。また、出羽松山藩<(注4)>の15人も、忠篤一行とは別に鹿児島に入った。

 (注4)「庄内藩初代藩主・酒井忠勝の三男・忠恒が、正保4年(1647年)庄内藩領のうち新田など2万石を分与されたことに始まる。3代・忠休は奏者番を経て若年寄に累進した。このため5,000石を加増され、更に・・・出羽国飽海郡松山(山形県酒田市)<に>・・・城を構えることを許され<た。>・・・幕末には本藩である庄内藩に従い奥羽越列藩同盟に与し明治政府軍に降伏。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%86%85%E8%97%A9#出羽松山藩

 合計93名は4ヶ月滞在して、軍事教練を受けた。
 西郷は、1873年(明治6年)の征韓論争に破れ下野し、同年11月10日に鹿児島に帰った。旧庄内藩士の酒井了恒<らが>・・・鹿児島を訪れて、西郷から征韓論に関する話を聞いた。・・・1875年(明治8年)5月には、・・・菅実秀<ら>・・・が鹿児島を訪れた。
 1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が西郷に戻され名誉が回復された。この機会に、上野公園に西郷の銅像が立てられることになり、酒井忠篤が発起人の1人とな<り、>菅実秀は・・・西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになった。
 1890年(明治23年)1月18日に、山形県の三矢藤太郎を編輯兼発行人とし、東京の小林真太郎を印刷人とし、秀英社で印刷された・・・『南洲翁遺訓』・・・約1000部が発行された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%B2%E7%BF%81%E9%81%BA%E8%A8%93

⇒これ、実に面白い物語ではあるものの、その中に登場する、西郷の有名な、しかし、凄まじい謀略のヒントを彼が一体何から得たのかが、私には未だに見えてきません。
 それにしても、西郷にこれだけひどい目に遭わされながら、西郷心酔者になってしまった庄内藩人士達の、若い藩主以下の人の好さというか、お目出度さには呆れます。
 先の大戦「敗戦」後の日本人達の米国に対する掌返し的態度の原型ここにあり、といったところですね。(太田)

(続く)