太田述正コラム#9873(2018.6.8)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その9)>(2018.9.22公開)

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[曹操・孔明と西郷]

 西郷は、斉彬の下で政治軍事の機微に携わるという貴重な経験を積んだ後に、1858年から64年にかけて、奄美黄島で3年余、沖永良部島で8か月、流人生活を送っており、潤沢な勉強時間が与えられ、実際、本土から取り寄せた漢籍を読み耽る生活を送っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B
 ところが、『西郷南州遺訓』を読む限り、西郷は、この間等において、私が、小学生時代に、子供向きに翻案された『三国志演義』を読んだ時に抱いた・・「国」力に違いがあったとはいえ、どうして名宰相孔明(諸葛亮)(や豪傑の関羽)等がいた蜀が、悪漢の曹操(途中で魏王となるが最後まで後漢の丞相で通した(注20))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)
に勝てなかったのか・・という単純な疑問を抱かなかった、か、抱いたけれどもこの疑問の解答を得ようとはしなかった、としか思えない。

 (注20)「196年、曹操は・・・<後漢の>献帝を自らの本拠・・・に迎え入れ、・・・200年には・・・、後漢の丞相となる。・・・216年、・・・曹操は魏王に封じられた。当時、皇族以外には「王」の位を与えないという不文律があったのにもかかわらず、曹操が王位に就いたということは、すなわち簒奪への前段階であった。しかし曹操は存命中は皇帝位を奪わずにいた。・・・
 220年、曹操が死ぬとともに、曹操の子である曹丕が魏王と後漢の丞相の地位を継いだ。同年のうちに、曹丕は・・・献帝から禅譲を受け、・・・後漢の都の雒陽の名を洛陽に戻して都とし、魏の皇帝となった。翌年に蜀の劉備も対抗して(漢の)皇帝を称し、さらに229年には呉の孫権も皇帝を称し、1人しか存在できないはずの皇帝が3人並び立つという、かつてない事態になった。・・・
 曹丕<(文帝)>は226年に死去し、長男の曹叡(明帝)が魏の皇帝となった。・・・
 234年、・・・諸葛亮が病死した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)

 しかも、当時の私と違って、西郷は、『孫子』も併せて読んでいただけに、このことは、更に不可解だ。
 「魏の曹操の「魏武注孫子」は簡潔で非常に優れた注釈として知られており、・・・り現在知られている孫子は曹操の整理したものを底本とする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
以上、西郷も、『孫子』を「魏武注孫子」で読んだはずであり、それが、曹操が編集し、註解をつけたものであることも知っていたはずだからだ。
 それならば、孔明のではなく、兵学者でかつ戦上手でもあったからこそ、蜀や呉との戦いを終始概ね優位に進めたと想像されるところの、曹操の「平日」や「戦」、に言及してしかるべきではないか。
 とまあ、こんな風に考えてくると、西郷は、歴史小説である、「蜀漢を正統・善玉とする講談の潮流を維持しながらも、・・・前半は「仁徳の人」劉備と「奸雄」曹操の対比を軸に展開<させ>・・・、後半<に>主人公格である諸葛亮<を>登場<させ、>・・・黄巾の乱から呉の滅亡までの後漢末の重要事件と陳寿の『三国志』の扱う範囲を収めている<ところの、>・・・明代に書かれた・・・『三国志演義』」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E6%BC%94%E7%BE%A9
しか読んでおらず、歴史書である『三国志』は読まなかった・・読もうとしなかった?・・のではないか、という気がしてきた。
 そう言えば、「西晋代の陳寿の撰による・・・『三国志』・・・は、司馬遷著『史記』、班固著『漢書』、范曄著『後漢書』と並び、二十四史の中でも優れた歴史書であるとの評価が高<く、>・・・魏のみに本紀が設けられているので三国のうち魏を正統としているものと判断されて<おり、>・・・後世になると、蜀(蜀漢)を正統とする朱子学の影響から、魏を正統とした陳寿への非難も現れた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%9B%B8)
、という歴史書だった。
 結局のところ、西郷が、朱子学の入門書である『近思録』を輪読する薩摩藩士の会である精忠組の盟主的存在を、かつて長年にわたって務めていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E5%BF%A0%E7%B5%84
こともあり、支那史を、いや、支那史に限らずあらゆる物事を、実証的観点からではなく、徹頭徹尾、朱子学的な偏向メガネを通じてしか見ることができなくなってしまっていた、だからこそ、ここでも、曹操ではなく、もっぱら孔明を取り上げざるを得なかった、ということだったのだろう。
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(続く)