太田述正コラム#9893(2018.6.18)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その2)>(2018.10.2)

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[お断り]

 「『岡正雄論文集 異人その他 他十二篇』を読む」シリーズを、「その5」で終えることとし、それに伴い、最後を、(続く)⇒(続く→完)、と改めることにしました。
 理由は、内容が古いということ以上に、岡の頭の中が整理されていないのではないか、という印象を抱いたことです。
 日本の民俗学、人類学、考古学、等の現状にも問題があるのか、十分、岡の論述に対する検証ができない・・少なくともネット上の文献群だけではできない、ということも付け加えておきたいと思います。
 そこで、しばらく放置していた表記シリーズを再開することにしましたところ、今記したような事情から、これも果たして最後まで続けることができるのかどうか、自信はありませんが・・。
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 「古事記が成立した翌年に当たる和銅6年(713)には、風土記編纂の官命が出された。
 日本書紀も最終的な編纂段階に至っていた頃である。
 その官命は、風土記<(注2)>に記載すべき項目として、「山川原野の名号の所由(しょいう)」(山川原野の名前の由来を伝える地名起源伝承)や「古老(ふるおきな)の相ひ伝ふる旧聞異事」(古老が代々伝承してきた神話伝承)をあげている。

 (注2)「元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた。・・・『続日本紀』の和銅6年5月甲子(ユリウス暦713年5月30日)の条が風土記編纂の官命であると見られている。ただし、この時点では風土記という名称は用いられておらず、律令制において下級の官司から上級の官司宛に提出される正式な公文書を意味する「解」(げ)と呼ばれていたようである。
 なお、記すべき内容として下記の五つが挙げられている。
1.郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.伝えられている旧聞異事」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98 ※
 「『出雲国風土記』について考えてみましょう。これは風土記のなかでも最も長編で、しかも幸運にも書写のさいに省略されないで伝わってきた貴重な完本です。書いた人の名も残っているし、成立の年月日も明記されています。」
https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_05.html

⇒記述の中で、風土記に記すこととされた五つ中、二つしかあげていない以上、松本は、一部であることが分かるようにすべきでした。
 支那でも、風土記に相当する公文書が作られたことがあるのかどうかはっきりしません(※)が、朝鮮半島では作られなかったのではないでしょうか。
 というのも、朝鮮半島で、「郡郷の名」「地名の起源」「伝えられている旧聞異事」に関して、それらを記録しておくほどの愛着があったのであれば、統一新羅による757年の全地名の支那風への全面変更・・その背景として、文明の日本から支那への乗り換えがあった・・(コラム#9510)など、およそ、行うはずがないからです。(太田)

 そんな時代まで、地方の神話の把握は大和王権にとっての必要事項であったのか。
 神話は人々がどのような価値観を持って生きているかを示す、いわばイデオロギーの象徴である。
 王権が地方の神話を利用しながら、新しい<神話>を創作するのは、列島全体を一つの価値観で覆って、国家イデオロギーを確立しようとしたために違いなかろう。
 そして、その国家の〈神話〉を地方が受け入れた瞬間に、その地方は精神史上においても「日本」になったということができるだろう。・・・」(19~20)

⇒松本が言っていることは、一般論としてはもっともらしいけれど、「古事記が成立した翌年に当たる和銅6年(713)に・・・風土記編纂の官命が出された<ところ、その時点には、既に、>日本書紀も最終的な編纂段階<に入っていた>」以上、もはや、「伝えられている旧聞異事」を収集したとしても、『古事記』にはもちろん、『日本書紀』にも反映させることはできず、遅きに失したのではないか、であるとすれば、風土記編纂の目的は、そんなところにはなかったのではないか、という疑問が湧きます。
 「『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したもので」す
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
し、「『日本書紀』<の>・・・編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
ところ、風土記編纂は、元明天皇が、この二つとは全く異なった目的でもって、行わせたのではないか、と。(太田)

(続く)

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