太田述正コラム#9905(2018.6.24)
<2018.6.23オフ会「講演」こぼれ話>(2018.10.8公開)

1 当初、「講演」原稿に入れるつもりで、途中で落とすことにしたところの、ネット上で見つけた島津斉彬評の月旦です。

2 斉彬評

 (1)範例1

 「<斉彬は、>幕末の<日本>膨脹論<者の一人>である。十九世紀の初め頃から膨脹論的な議論が多く現れたが、それらの中に台湾の領有を主張したものがある。佐藤信淵『混同秘策<(注1)>』、野本白岩『海防論』<(注2)>、吉田松陰『幽囚録』など<だ。>」
https://www.hit-u.ac.jp/hq/vol035/pdf/hq35_30-33.pdf

 (注1)佐藤信淵(1769~1850年)。素性不詳の山師的人物。「<著書の>『混同秘策』の冒頭に「皇大御国は大地の最初に成れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし」と書いて満州、朝鮮、台湾、フィリピンや南洋諸島の領有等を提唱した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5
 (注2)不明。野本白巌(1797~1856年)のことであるとすれば、中津藩の藩校・進脩館で教えた藩儒、引退後、塾主。著作に「詩書説」「白巌詩文集」など。
http://kintoun51.blog.fc2.com/blog-entry-563.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%9F%B3%E7%85%A7%E5%B1%B1
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E6%9C%AC%E7%99%BD%E5%B7%8C-1100443

⇒斉彬を、その台湾進出論だけでもって日本膨張論者の範疇に入れてはいけません。
 また、信淵は山師に過ぎないのでその見解など無視するとして、白岩の見解については分からなかったので評価のしようがなく、また、松陰の見解については、前に(コラム#9692で)述べたように、横井小楠コンセンサスを祖述しただけだと私は考えており、その折にも指摘したことも踏まえ、吉田松陰に対して、日本膨張論者、というレッテル貼りをすることすら、不適切である、と、私は思っています。(太田)

 (2)範例2

 「・・・斉彬の唱える政策とはこうである。
 「欧米列強に並んで、海外に積極的に進出する。台湾、満洲、朝鮮に出兵し本国の護りと為し、同時に太平天国で苦しむ清朝政府を扶け、アジアの同盟をなす」と、簡潔に答えるとこういうものである。

⇒「満州、朝鮮」については斉彬は直接的には何も言っていませんし、全般的に言葉遣いが乱暴過ぎますし、「簡潔に答え」過ぎでもあります。
 私の「講演」原稿を参照してください。(太田)

 こういった開明的な意見は、巷間の志士たちよりはるかに世界が見えていたと言える。
 しかし、ここで西洋と大きく違うことは<、>西洋が産業革命により膨張した資本に対応できなくなり、海外へ新しい市場を求めたのに対して、島津斉彬の説くこの「日本膨張論(とでも言っておこうか)」は純国防政策論であり、けっして帝国主義の植民地政策ではなかった。

⇒私見では、イギリスの海外進出は、一貫して軍事力の行使ないし威嚇を手段として経済的利得をするのが目的だったのであって、(イギリスに関しては産業革命などなかったことはさておき、)この筆者の認識は間違っていますし、欧州諸国に関しては、基本的には、イギリスの欧州進出を抑止するために、軍事力の行使ないし威嚇を手段として経済的収奪を行う目的で地理的意味での欧州以外への侵略を行ったのであり、やはり、この筆者の認識は間違っています。(太田)

 つまり、海外で日本軍が屯田兵の如く自給自足し、国防に当たるというものであった。

⇒斉彬が屯田兵的なものを示唆したのは、蝦夷地に関してであり、外地については、そんなことは示唆していません。(太田)

 この島津斉彬の「日本膨張論」は、しかし、やはり書生論であって<、>国際情勢を一切無視したものであった。

⇒ここまでの私の諸コメントを再度参照してください。(太田)

 実際にこの「日本膨張論」に類似する議論が明治政府初期のころ閣内を二分して議論された。
みなさんご存じの「征韓論」だ。

⇒征韓論は、横井小楠コンセンサス信奉者中の跳ね上がり達と島津斉彬コンセンサス信奉者中の跳ね上がり達が推進したものですが、その推進理由は、両者に共通する安全保障、及び、後者だけのアジア主義、であり、「日本膨張論」の定義にもよりますが、征韓論は、少なくとも、日本を膨張させること自体を目的としたものではありませんでした。(太田)

 征韓論が実現されていたら、日本は清、ロシア、英仏を同時に相手に戦わなければならなかったかもしれない。
 それを考えると、やはりこの純国防的「日本膨張論」は机上の空論であった。

⇒時代も相対的国力も異なるけれど、先の大戦において、実に、日本は、蒋介石政権、ソ連(ロシア)、英、に、仏ならぬ米、を相手に戦わなければならなくなったけれど、それでも日本は、戦争目的を全て達成し、事実上、戦勝しましたよ。(太田)

 しかし、島津斉彬が卓抜した眼目の持ち主であることは揺るぎがない。・・・」
https://ameblo.jp/rekishiyowa/entry-10774579364.html

⇒それは、その通りです。(太田)

・斉彬評3

 「大アジア主義というのは、「東アジア諸民族は、漢字・仏教・儒教など共通の文化を持っているからお互いに理解しあえる。だから大同団結して欧米に対抗しよう」という考え方です。

⇒(大)アジア主義は、そもそも、対象がアジアに限られていたわけではなく、欧米(及びロシア)の植民地ないし勢力下に置かれた全ての地域や国を対象にしていました。
 従って、それは、例えば、イスラム教地域や国も対象にしており、漢字や仏教や儒教に係る地域や国だけが対象ではありませんでした。
 ですから、「共通の文化を持っている」かどうかなど、全く関係ないのです。(太田)

 この考え方は、19世紀半ばの幕末に日本で生まれた考え方で、支那人や朝鮮人の賛同者はあまりいませんでした。それは日本人が勝手に、東アジアには共通した文化がある、と勘違いして考え出したもので、支那人や朝鮮人はそう思っていなかったからです。
 提唱したのは、幕末最大の名君だと言われた薩摩藩主島津斉彬や勝海舟、吉田松陰などの錚々たる人物でした。

⇒そもそも、この筆者が(大)アジア主義を曲解しているという点はさておき、(大)アジア主義を唱えたと受け止められうるのは、その中では島津斉彬だけですし、彼は、世界で最初に(大)アジア主義を唱えた人物であると言ってよいでしょう。(太田)

 従って幕末・明治維新から戦前、さらには現在に至るまで、日本人に非常に大きな影響力を持っています。

⇒島津斉彬の(大)アジア主義、に限定した上でですが、その通りです。(太田)

 日本の政府が大アジア主義をそのまま標ぼうしたことはありません。
 明治期は「脱亜入欧」が基本方針で、欧米諸国に文明国だと認められようと一所懸命だった時代です。
 そういう時に文明開化に反する大アジア主義を真正面から主張するわけにいかなかったからです。
 政府の正式な政策になったことはありませんが、大アジア主義の考え方は日本人に広く浸透していたので、日本政府の政策に大きな影響を与え続けていました。
 昭和初期の「大東亜共栄圏」構想も、大アジア主義の流れを汲んでいます。

⇒以上のくだりは、中らずと雖も遠からず、です。(太田)

 大アジア主義は、日本人の勘違いから生まれた現実性のない考え方なので、大いに日本の国益を損なってきました。しかし日本人はいまだに、この考え方から卒業できていません。」
http://ta-ichikawa.com/?p=1010

⇒(大)アジア主義を担った人々はロマンティスト達であったという意味ではリアリスト(現実主義者)達ではありませんでしたが、彼らの考えに現実性がなかったわけではなく、実際、(最終的な目標は(大)アジア復興ですが。)(大)アジア解放については、日本の(大)アジア主義者達の尽力により、先の大戦終了時までに概ね達成されていることからみても、現実性はあったと言うべきでしょう。(太田)