太田述正コラム#9909(2018.6.26)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その7)>(2018.10.10公開)

 「・バナナタイプ(死の起源神話)
 コノハナノサクヤヒメの一節の素材となったのは、バナナタイプと呼ばれる死の起源神話<(注12)>である。

 (注12)「旧約聖書の創世記に出てくる生命の樹と知恵の樹(善悪の知識の樹)の説話も、このバナナ型神話の変形であると考えられる。
 エデンの園の中央には神によって2本の樹、すなわち、その実を食すと永遠の命を得ることができる生命の樹と、知恵(善悪の知識)を得ることができる知恵の樹が植えられていた。この内、知恵の樹の実の方は神によって食べることを禁じられていた(禁断の果実)。知恵の樹の実を除いて、エデンの園に生る全ての果実は食べても良いとされていた。
 しかし生命の樹の実と知恵の樹の実、二者択一の内、蛇に唆されたとはいえ、人類は禁じられていた知恵の樹の実の方を選んで食べてしまったために、善悪の知識を得る代わりに永遠の命を得る機会を失い、神によってエデンの園を追放されてしまう。それ以降人類は必ず死ぬようになったのである。・・・
 この説話は神学的に解釈され意味づけされることによって改変され、神に対する不服従、原罪、罪に対する罰、などの観点が強調され、また生命の樹が物語の背後に隠れてしまったために、趣旨が変わってしまったが、原型は人類の死の起源を説明したバナナ型神話の一種なのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%8A%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1

⇒なるほど、二つの神話が組み合わされている、ということには全く気が付きませんでした。
 ところで、私は、小学生時代に、新約聖書中のイエスの磔刑と復活の物語を読んで、エホバは何という面倒くさいことをするアホな神様だ、と呆れたことがきっかけでキリスト教徒を愚民視するようになったのですが、ドゥテルテは、恐らく、幼少時から旧約聖書中のエデンの園のくだりに呆れていたのでしょう(コラム#9908)、ドゥテルテの方が、私よりも、更に根源的、かつ、筋の良い、キリスト教、というか、アブラハム系宗教群に対する蔑視意識、を幼少時から抱いてきた、と言えそうです。(太田)

 世界中には様々な死の起源神話が伝えられている。
 人は死をどのように受け止めたらよいのか。
 この大きな命題を克服するのに、人々は神話の助けを必要としたのだ。
 死の起源神話には五つの大きな型がある<(注13)>のだが、その一つが バナナタイプ(選択型)である。

 (注13)1.人間は蛇のように脱皮できず、死の運命を得た。
     2.石は死なず、人間は死ぬ。(バナナ型神話)
     3. 月は蘇(よみがえ)るが、人間は死ぬ。
     4.性交が、人間世界に死をもたらした。
     5.死の必要性。
https://www.weblio.jp/content/%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90?edc=MNGTR

⇒荒唐無稽でなかったのは5だけだった、ということを我々は知っているわけですが・・。(太田)

 「不変の物と移ろいやすい物のうちから、人が後者を選択したために、それ以来、人は死ぬことになった」という型の神話である。
 インドネシアの神話では、神は「石」と「バナナ」を人に与えたが、人は「石」を食うことを拒否し、「バナナ」だけを食したので、それ以来、人は「石」のように永遠には生きられず、「バナナ」のように儚い寿命をもってしまったという内容である。・・・
 「コノハナノサクヤヒメかイハナガヒメか」という筋書きは、間違いなくこの選択型の死の起源神話に属しており、それを根拠に死を受け入れていた人々がこの列島上に暮らしていたのだ。
 ただ、一つ大きな違いがある。
 それは、神話が人の死の起源を語るのに対し、コノハナノサクヤヒメの話は、天皇が寿命を持つことを合理化している点である。
 これもオロチ退治と同様に考えるのがよいだろう。
 つまり、もともと民衆が伝承していた「人の死の起源」を説く神話があり、大和王権がそれを素材として「神であるはずの天皇がなぜ死ぬのか」という一節にしつらえ直したということである。」(42~43)

(続く)