太田述正コラム#9913(2018.6.28)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その9)>(2018.10.12公開)

 「・・・スサノヲ<の言動を見てみよう。>・・・

 (言葉=心)「妣の国<(注17)>へ行きたい」⇔(行為)高天原に昇る

 (注17)「根の国(ねのくに)は、日本神話に登場する異界である。『古事記』では「根之堅洲國」(ねのかたすくに)・「妣國」(ははのくに)、『日本書紀』では根国(ねのくに)・「底根國」(そこつねのくに)、祝詞では根の国底の国・根國底國(ねのくにそこのくに)・底根の国(そこねのくに)と書かれる。・・・
 柳田國男は、根の国の「ネ」は琉球の他界信仰である「ニライカナイ」と同じものであるとし、それに「根」の字が宛てられたために地下にあるとされるように変化したとしている。また、高天原も根の国も元は葦原中国と水平の位置にあったのが、高天原を天上に置いたために根の国は地下にあるとされるようになったとする説もある。いずれにしても、根の国が地下にあるとされたことで、それが死者の国である黄泉の国と同一視されるようになった。
 祝詞においては、罪穢れは根の国に押し流すとしていたり、悪霊邪鬼の根源とされたりしている。逆に、『古事記』では大国主が王権の根拠となる生大刀・生弓矢・天詔琴を根の国から持ち帰っていたり、スサノ<ヲ>が根の国を「妣(はは)の国」と呼んでいたりする。これらのことから、根の国は正と負両方の性格を持った世界と捉えられていたと考えられる。柳田國男は根の国が「ニライカナイ」と同根であるとの考えから、本来は明るいイメージの世界だったとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E3%81%AE%E5%9B%BD

⇒柳田國男だろうが誰だろうが、「注17」のような立論は、見てきたようなウソをつき、と言って語弊があるとすれば、語呂合わせ・・同じようなものかな・・的議論のような気がします。(太田)

 (言葉=心)「高天原を奪う邪心はない」⇔(行為)高天原を占拠する

 棚木恵子<(注18)>が「同時間内における彼の身上と行為の間には矛盾がみられるのである。

 (注18)「早稲田大学教育学部卒業。早稲田大学文学研究科大学院博士課程単位取得退学。早稲田大学非常勤講師、コロンビア大学客員研究員を経て目白大学非常勤講師。臨床心理士。専攻古代文学、臨床心理学」
http://www.hmv.co.jp/artist_%E6%A3%9A%E6%9C%A8%E6%81%B5%E5%AD%90_200000001038679/

 この矛盾を単純化して示せば、内的=善意・外的=暴悪」であると指摘する通りである・・。・・・

⇒このような、テキスト分析的立論は、「科学」であり、後は説得力があるかどうかですが、この場合、説得力はあると思います。(太田)

 スサノヲは出雲の国の特定の範囲で信仰されていた地方の有力神であったと推測できる。
 出雲国風土記のスサノヲは、素朴な「須佐<(注19)>の男」の姿を見せていた。

 (注19)現在の島根県出雲市・・出雲大社がある・・の南西地区である
http://www.izumo-kankou.gr.jp/pdf/izumo-kankou.pdf
「須佐・・・の地は・・・須佐之男命に関わりが深く、『出雲国風土記』の須佐郷の条には、須佐之男命が当地に来て最後の開拓をし、「この国は小さい国だがよい国だ。自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたと記されています。」
https://www.izumo-kankou.gr.jp/684

 古事記と日本書紀の<神話>に見られる猛々しい性格は、「須佐の男」を「すさぶ男」と意味づけなおしたものであろう。
 中でも<神話>を一本化する古事記は、スサノヲをひとつの神格として、内部で破綻させることなく描くことに成功している。
 「貴」い武勇の英雄でありながら、統治者として不適当なスサノヲは、アマテラスの引き立て役となり、アマテラスに代って地上の怪物を退治する。
 地方の有力神はこのように取り込まれ、利用されたのである。」(59、68)

(続く)