太田述正コラム#9921(2018.7.2)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その13)>(2018.10.16公開)

 「オホナムチは、母親の教えに従い、スサノヲのいる根堅州国(ねのかたすくに)を訪問する。
 オホナムチを出迎えたのはスサノヲの娘スセリビメ<(注27)>であった。

 (注27)「神名の「スセリ」は「進む」の「スス」、「すさぶ」の「スサ」と同根で、積極的な意思をもつ女神の意である。・・・神社<には、>・・・大国主とともに祀られている場合がほとんどである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%A1

 スセリビメはオホナムチを「麗(うるは)しき神」と認めて結婚したが、スサノヲは「アシハラシコヲ」だと言って、それに数々の試練を課すことになる。
 シコヲとは「醜男(しこを)」のことであるが、「醜(しこ)」には不気味なほど頑強といったニュアンスが含まれており、単に醜い男を言うのではない。・・・
 この後、スサノヲはオホナムチに数々の試練を課し、スセリビメはオホナムチを献身的に支援する。
 試練とその克服は成年式の反映だとされている。
 たとえば、南太平洋の島国を発祥とするバンジージャンプはもともと大人社会への入門式における試練であった。
 だとすると、「醜男」だと言ったスサノヲと、「麗しき神」だと言ったスセリビメとが、それぞれ反対の立場から、オホナムチの成長を助けたことになる。<(注28)>・・・

 (注28)「<こ>の説話は、結婚相手の父から試練を与えられて、結婚相手の助言や手助けによって克服するという課題婚と呼ばれる神話の形式である。」(上掲)
 これを「難題婚ともいう。・・・フィンランドの民族叙事詩カレワラでは、ワイナミョイネンの1度目のポポヨラ行のとき、イルマリネンの2度目のポポヨラ行のときにそれぞれこの型が見られる。前者ではワイナミョイネンは単独でこれに挑み、失敗する。後者では嫁に解決法を聞くことでこれを克服する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%B2%E9%A1%8C%E5%A9%9A
 その結果、「ワイナミョイネンは自分が老齢であることを認め、今後は老人が若い娘をもらわぬよう戒めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%AF%E3%83%A9
 「ワイナミョイネン・・・はフィンランドの民間伝承と国民的叙事詩カレワラの主要な登場人物である。元々はフィンランドの神であった。・・・
 カレワラ<の>・・・50章目の詩<(最後の詩)>の主題はフィンランドへのキリスト教伝来と、その結果生じた古い異教信仰衰退の歴史である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%9F%E3%83%A7%E3%82%A4%E3%83%8D%E3%83%B3

 自らの試練を克服したオホナムチに対して、スサノヲは・・四つの指令をだす。・・・
 武力で八十神を追い払い、国境を取り払ってオホクニヌシとなれ・・・
 国魂(くにだま)(国に宿る神霊)を統括して、・・・宗教的な支配者となれ・・・
 スセリビメを嫡妻(むかひめ)(正妻)にせよ・・・
 地底深くの岩盤に、宮殿の柱を立派に立て、高天原に届くほど高々と氷椽(ひぎ)(千木<(注29)>(ちぎ))を構えて、そこに居れ・・・

 (注29)「千木は屋根の両端で交叉させた部材であり、鰹木<(かつおぎ)>は屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材である。どちらも本来は上流階級の邸宅にも用いられたが、今では神社にのみ用いられる。
 千木は古代、屋根を建造する際に木材2本を交叉させて結びつけ、先端を切り揃えずにそのままにした名残りと見られる。千木・鰹木ともに本来は建物の補強が目的だったと考えられる。・・・
 <支那>雲南省のワ族やタイ王国のラワ族・ラフ族・アカ族・カレン族などの高床式住居にも千木<が>あ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9C%A8%E3%83%BB%E9%B0%B9%E6%9C%A8

 <最後のは、>「天皇や皇祖神の宮殿に匹敵する壮大、荘厳な宮殿に居れ」との指令であり、結果的には杵築大社<(注30)>の創建と、そこへの鎮座を意味している。」(77~)

 (注30)出雲大社は、「古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。・・・
 平安時代前期までの祭神は大国主神であった<が>、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた(本来国引きは八束水臣津野命)ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊であった。・・・
 寛文7年(1667年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。これに併せて祭神は須佐之男命から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%A4%A7%E7%A4%BE
 「神仏分離は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること<だが、>その動きは早くは中世から見られる<も>、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により・・・全国的に公的に行われたものを指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2

⇒杵築大社(出雲大社)における、江戸初期と中期の端境期での神仏分離は、「注30」内で引用した神仏分離のウィキペディアにいう諸神仏分離の中では、異例のものであった感があります。
 「中世から見られる」ところの、諸神仏分離の中での位置づけいかんによっては、これが、江戸中期以降の神仏分離の契機になった可能性があります。
 同大社の祭祀を、神代の時代より代々担ってきたところの、かつては、ヤマト王権家に対抗した家であったところの、格式の高い、出雲国造家・・現在は千家家・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%80%A0
の矜持が、事実上、最初の神仏分離に踏み切らせた、と、私としては、想像してみたいところです。(太田)

(続く)