太田述正コラム#0671(2005.3.26)
<モンゴルの遺産(キルギスタン革命)>

 (本篇は、実質的にはコラム#668の続きです。)

1 あっという間に革命成就

3月22日の段階では、新たに、南部の三つ目の州都の庁舎が蜂起した民衆によって占拠されキルギスタン南部がすべて蜂起側に押さえられるとともに、それまでは天山山脈(Tien Shan mountains)以南に限定されていた蜂起が、北部の二つの都市にも飛び火しました。
他方この日、中央選挙管理委員会は、総選挙の結果75議席中69議席が確定したと宣言し、これを受けて「当選」した議員達による議会が開催され、アカエフ大統領に対し、国家緊急事態を宣言するように求める決議が採択されました。(http://www.nytimes.com/2005/03/23/international/asia/23kyrgyzstan.html?pagewanted=print&position=。3月24日アクセス)
翌3月23日に、キルギスタンのアカエフ大統領は内相と検事総長を更迭しましたが、新任の内相は、「法は特殊な手段や火器といった物理力を含む措置をとる権利をわれわれに与えている」(http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,1444232,00.html。3月24日アクセス)と蜂起した民衆を恫喝しました。
ところが、その次の24日にはもう大統領が逃げ出し、革命が成就してしまったのです。
これは、蜂起側にとっても意外な展開でした。
この日、初めて首都ビシュケクでも蜂起側のデモ行進が行われたのです。
このデモに対抗すべく、大統領の家族の息がかかったスポーツ団体が動員されたのですが、彼らが蜂起側に殴り込みをかけたのです。これをきっかけにデモの規模は一層ふくれあがり(注1)、彼らは一挙に押し出して警察の警戒網を突破し、大統領府に突入したというのです(注2)。

(注1)最初はわずか数百から千人程度だったようだ。最終的な規模としては、1万人説と4万人説がある。
(注2)その後、ビシュケク中心街のデパート等の略奪が行われた。

前日の段階で蜂起側首脳陣は、アカエフ大統領が10月の任期で間違いなく辞任し、その時点で大統領選挙と総選挙を行うことを確約する、というラインで大統領と手打ちをする方針を固めていました。
アカエフ大統領は情勢判断を誤り、自ら墓穴を掘ってしまったわけです。
アカエフは大統領府が占拠される前に逃亡しました(注3)が、国防相は民衆にこづかれながら外に連れ出されました。次いで国営TV局が占拠され、更に2001年から投獄されていた元副大統領(Feliks Kulov)が民衆によって解放され、最高裁は総選挙の無効を宣言し、蜂起側の新旧議員達が集まって(注4)議会が開かれ、暫定大統領に蜂起側の議員(Ishenbai Kadyrbekov)を選出しました。
(以上、http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,1444837,00.htmlhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/4380899.stm、及びhttp://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-032405kyrgyzstan_lat,0,1760793,print.story?coll=la-home-headlines(3月25日アクセス)による。)

 (注3)アカエフがまだ国内にとどまっているのか、国外に逃亡したのか、国外逃亡先がカザフスタンなのかロシアなのか、説が入り乱れている。
 (注4)旧議会の議員達が集まった、という説もある。

2 グルジア・ウクライナとの相違

 このキルギスタンの革命を、(キルギスタンと同様ソ連から分離独立した)グルジア及びウクライナの革命と比較してみましょう。
 まず、似ている点です。
 蜂起が、第一に国際監視団が選挙が不公正に実施されたと指摘したことを契機に始まったことと、第二に独立してからずっと同一の大統領の下で政権を維持してきた権力への異議申し立てとして行われたことです。
また、第三に、死者が出なかった無血革命であったことです(注5)。

 (注5)死者が出たという報道もあった(コラム#668)が、その後否定されている(典拠失念)。ただし、CSモニター下掲は、死者が出たという説に立っている。

 違う点は次の通りです。
 第一に、キルギスタンだけ、比較的最近民族紛争を経験していた(1990年に多数派のキルギス族と少数派のウズベク人とが南部で流血を伴った衝突をした)にもかかわらず、これまでのところ民族紛争に発展することなく革命が成功したことです。
第二に、キルギスタンだけ、蜂起側が一人のリーダーの下に結集できず、ばらばらであったにもかかわらず、革命が成功したことです。(グルジアのような赤いバラ色、ウクライナのようなオレンジ色、といった統一的なシンボルカラーさえキルギスタンの蜂起側は持ち得なかった。)
第三に、キルギスタンだけ、欧米への憧憬ないし欧米の一員になりたいという気持ちなくして自由・民主主義革命がなった、ということです。その背景には、キルギスタンの地理的位置やキルギスタンの人々の宗教(キリスト教でなくイスラム教)、そしてかねがね私が力説している、モンゴルに由来するところの、欧米とは異なった自由・民主主義的伝統、があります(注6)。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.cnn.com/2005/WORLD/asiapcf/03/21/kyrgyzstan.factbox.reut/index.html(3月25日アクセス)による。)

(注6)だからこそ、キルギスタンにおいてのみ、最終場面で日本大使の出番があったということになろうか(http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20050324id23.htm。3月25日アクセス)。

3 次はどこか?

 ソ連から独立した国々で立て続けに三つも自由・民主主義革命が起こったからには、また起きるのではないか、それはどこか、ということが気になります。
 今年1月下旬の時点では、次に自由・民主主義化するのは、中央アジアではトルクメンやウズベキスタンでは可能性がないが、キルギスタンでは可能性がある。そのほかは、モルドバで可能性があり、アルメニアでも可能性がないわけではない、という指摘がありました(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4192381.stm。1月22日アクセス)。
 この指摘は、一ヶ月余り後にモルドバで(注7)、そして二ヶ月後にはキルギスタンで実現したことになります。

 (注7)モルドバのケースが特異なのは、民衆蜂起が起きたわけでも政権交代が起きたわけでもないことだ。すなわち、親露政権が3月6日の総選挙の少し前に親欧米路線に政策を転換し、にもかかわらず、この総選挙で議席を少し減らしただけで、引き続き政権を維持することができた、というもの。(http://news.goo.ne.jp/news/sankei/kokusai/20050308/m20050308009.html?C=S。3月25日アクセス)
だから、モルドバのケースは自由・民主主義「革命」とは言えない。

2月上旬には、中央アジアでも、カザフスタンでは自由・民主主義革命の可能性があるのではないか、との指摘がありました(http://www.csmonitor.com/2005/0210/p01s03-wosc.html。2月10日アクセス)。現時点でもカザフスタン説は有力です(http://www.nytimes.com/2005/03/24/international/asia/24cnd-kyrgyzstan.html?ei=5094&en=2f0a8b8c03d1b349&hp=&ex=1111726800&partner=homepage&pagewanted=print&position=。3月25日アクセス)。
 カザフスタン説は、英国ではなく米国のメディアが唱えているだけに、信憑性は今一つですが、私自身は、そうあって欲しい、と願っています。キルギスタンに負けないくらいモンゴルの強い影響を受けている地域だからです。(ただし、自由・民主主義嫌いであるところのロシア人が沢山居住していることはマイナスの要素です。)
 カザフスタンでも自由・民主主義革命が起きれば、中共はモンゴルからアフガニスタンに至る自由・民主主義帯域で囲まれることになり、中共の共産党独裁政権は生きたここちがしなくなることでしょう。