太田述正コラム#0673(2005.3.28)
<パキスタン(その1)>

1 三つの遠心力

 これまでインドについてはたびたび取り上げてきましたが、インドと同じく英領インド帝国から分かれたパキスタン、そのパキスタンから更に分かれたバングラデシュについては、今まで正面から取り上げたことがありません(注1)。

 (注1)ただし、パキスタンについては、「印パのにらみあい」シリーズ(コラム#9、10、14)及びその後日談であるコラム#68-2(印パの緊張緩和)の中で若干カバーされている。

 そこで、まず、パキスタンを取り上げることにしました。
 パキスタンには、英国の国防省の大学校に留学していた1988年の秋に、この大学校からの研修旅行でインド、パキスタン両国を一ヶ月かけて訪問した折、約10日間滞在したことがあります。(訪問した都市は、イスラマバード・ラホール・ペシャワール・カラチ。)
 その時の私の率直な印象は、1971年に東パキスタンがバングラデシュとして分離したが、近い将来、パキスタン本体も空中分解するのでではないか、というものでした。
 私の当時の予想に反してパキスタンは現在でも存続してはいますが、私が当時気付いた三つの遠心力は現在も強力に働いており、パキスタン政府がこれらの遠心力に抗しうるだけの求心力を維持できるかどうかについては、私は依然として悲観的です。

2 混迷する国のかたち

 (1)パキスタンの由来
 英国は、英領インド帝国を分割統治するために、少数派のイスラム教徒を手なづけ、ヒンドゥー教徒に対抗させる政策をとってきていました。
 第一次世界大戦が終わり、オスマントルコ帝国が崩壊し、スルタン・カリフ制がケマル・アタチュルクによって廃止された時、当時の英領インド帝国東部軍司令官のタッカー(Sir Francis Tucker)は「トルコはイスラムのリーダーシップを失った。イスラム教徒達はロシアのイスラム教徒がリーダーシップを発揮することを期待するかもしれない。こんなことになったら危険きわまりない。だから英国の英知によって支援された新しいイスラム権力を導入することが望まれる。・・ロシアの共産主義とヒンドゥー主義との間にイスラムの障壁を設けるべきだとする声がわれわれの間である」と述べています(http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/GC23Df04.html。3月23日アクセス)。
 英国人のタッカーは、あたかも、先の大戦後にパキスタンが生まれ、英国からバトンを託された米国がパキスタンを反共の砦、更には反イスラム原理主義の砦として活用することを見通していたかのようです。
 英領インド帝国のイスラム教徒達は、以心伝心、このような英国の期待に答える動きを始めます。
まず、英領インド帝国の詩人にして哲学者であったイスラム教徒のイクバル(Sir Allama Muhammad Iqbal。1877??1938年)は、英領インド帝国(インド亜大陸)が将来独立する場合は、宗教ごとのコミュニティーの連合体(Federation)となるべきであるとして、1930年、インド西部にイスラム教徒を結集したコミュニティーをつくることを提唱しました。
 もっともイクバルは、独立インドが、英国と同じような世俗的で自由・民主主義的な国となることを前提にしていました。
 次いで、英ケンブリッジ大学へのインド人イスラム教徒たる留学生達(Chaudhari Rahmat Ali等)は、イスラム教徒を結集した独立国家、パキスタン(注2)をつくることを提唱しました。

 (注2)パキスタンとは、P = パンジャブ(Punjab)、A = アフガニア(Afghania)(North-West Frontier Provinceをそう命名した)、K = カシミール(Kashmir)、 S = シンド(Sind)、Tan = (バルチスタン)Baluchistan、の合成語。ベンガルが言及されていないことは暗示的だ。ウルドゥ語で、純粋で清浄な国、という意味になる。)

 そしてジンナー(Muhammad Ali Jinnah(後にQuaid-e-Azam =偉大な指導者、と呼ばれるようになった)。1876??1948年)は、紆余曲折の末、インド亜大陸のイスラム教徒を結集した、世俗的で自由・民主主義的な独立国をつくることことを決意し、1947年にパキスタンが分離独立するのです。
 このため、イスラム教徒はパキスタンへ、ヒンドゥー教徒とシーク教徒はインドへ移住することを余儀なくされ、総計1200万人の大移動が行われ、その過程で200万人が命を落としました。
(以上、http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/r?frd/cstdy:@field(DOCID+bd0023)及びhttp://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/r?frd/cstdy:@field(DOCID+bd0024)(3月27日アクセス)による。)
しかし、インド亜大陸の当時の総人口4億人中1億人いたイスラム教徒の三分の一はインドにとどまり、パキスタンには三分の二(西パキスタン三分の一、東パキスタン三分の一)しか集まらなかったことが、パキスタンの国のかたちに暗雲を投げかけます。
しかも、ジンナーはパキスタン建国の翌年には逝去し、ジンナーの片腕であったアリ・カーン(Liaquat Ali Khan。)もその三年後に他界し、パキスタンを世俗的な自由・民主主義国家にするという路線が固まらないうちにパキスタンは最高指導者であった二人を失ってしまうのです。
その時点で、パキスタンでは国のかたちとして、三つの理念型を軸とした議論が行われていました。
第一は、インド亜大陸のイスラム教徒を結集した国家です。
第二は、イスラム国家です。
第三は、世俗的な自由・民主主義国家です。
第一と第二、第一と第三は、それぞれ両立します。しかし、第二と第三を両立させることは困難です。
ところが、第一の理念型は、三分の一のイスラム教徒がインドに残ったために、最初から破綻したも同然でした。しかし、パキスタンの残された指導者達はこの理念型を捨て去ることができませんでした。ここにパキスタンの歴代政府が、インドとの対立を厭わず、住民の大部分がイスラム教徒であるところのカシミール地方の併合にこだわり続けてきた根本原因があります(注3)。

(注3)しかし、1971年にパキスタンから東パキスタン(バングラデシュ)が分離独立し、パキスタンにはインド亜大陸のイスラム教徒の三分の一しかいなくなったというのに、なおパキスタンが「インド領」カシミール(全カシミールの五分の三の領域・五分の四の人口(http://www.pekinshuho.com/JP/2002-2/fm1.htm。3月28日アクセス))併合に向けての画策を続けていることには、呆れるほかない。
    三回の印パ戦争のうち、最初の二回はカシミール、最後の一回は東パキスタン分離を巡って行われた(典拠同上)が、いずれも、パキスタンの第一の理念型へのこだわりがもたらした戦争であると言えよう。

また、第二と第三の理念型は両立させることが困難であるにもかかわらず、二者択一の決断は容易にできませんでした。
結局独立後9年も経った時点でようやく憲法が制定される(インドは独立後2年で憲法制定)のですが、その時採択されたパキスタン・イスラム共和国(Islamic Republic of Pakistan)という国号が象徴しているように、爾来パキスタンは二兎を追う矛盾をも背負い込むことになるのです。
(以上、http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/GC19Df04.html(3月19日アクセス)による。)

(続く)