太田述正コラム#9963(2018.7.23)
<松本直樹『神話で読みとく古代日本–古事記・日本書紀・風土記』を読む(その34)/私の現在の事情(続X117)>

 「だが、ヲロチ退治は紛れもなく出雲の土地を舞台にしている。
 その結末にあたる須賀の宮の造営は、みごとに地名起源になっているし、スサノヲのたどった道は、出雲の地理にかなっていた。
 だから、ヲロチ退治から須賀の宮の造営にいたる<神話>を載せないことは、出雲国風土記としての意思表示に違いないのだ。」(251~252)

 (注79)「『古事記』によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時に須佐之男命が詠んだ歌が日本初の和歌ということで、「和歌発祥の地」とされている。
 天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定される。・・・本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰<(すがね)>命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E6%88%91%E7%A5%9E%E7%A4%BE

3 終わりに

 まだ、この本は285頁まで続くのですが、すぐ上に出てきたところの、「出雲国風土記としての意思表示」に関する、松本なりの推測を含め、この本における松本の論述は、私として、その殆どが余り説得力があるように思えないこともあり、このあたりで、このシリーズを終えようと思います。
 何度も繰り返して恐縮ですが、私としては、古事記、日本書記、そして、風土記(の神々に触れた部分)、の、大和王権当局としての棲み分けの考え方が、さっぱり見えてこないまま終始した、という不完全燃焼感で一杯です。
 この分野で、新進気鋭の学者が現れて、快刀乱麻の活躍をしてくれることを願って止みません。

(完)
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–私の現在の事情(続X117)–

 本日、大森駅ビル内のブックファースト・・コラム#9543と9561で丸善と書いたのは誤り・・で、文庫・新書を5冊買いました。↓

〇丸山眞男『政治の世界 他十篇』(岩波文庫)・・次回のオフ会「講演」でも丸山論を改めて行うかもしれないが、いずれにせよ、彼の著作をもう少し読んでおくことにした。
〇木村光彦『日本統治下の朝鮮–統計と実証研究は何を語るか』(中公新書)・・書評で日本の朝鮮半島統治が世上言われてきたような、いわゆる持ち出し、ではなかったと主張しているというのを読んだので関心を持っていた。
〇平川新『戦国日本と大航海時代–秀吉・家康・政宗の外交戦略』(中公新書)・・島津斉彬が秀吉ファンであったことを知り、もう一度当時を振り返ってみる気になった。
〇吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の真実』(中公新書)・・リンチと餓死なる被虐史観が少しは変ってきているかどうかを確かめたくなった。
〇井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』(講談社現代新書)・・新しい史料を紹介しているというのは面白そうだ、と。

 何だか、私が関心がある分野の本が急に増えたようで、明治維新150年ということで、日本に歴史ブームが到来しているのかもしれませんね。
 だとしたら、大変結構なことですが・・。
 実のところ、英米の新刊書で、太田コラムのシリーズに仕立てて紹介するに値するものが、このところ、ずっと見当たらず、困っていたので、(現在進行形だった邦書のシリーズを終えたい気もあり、)邦書を探しに行った次第です。
 このところ、毎回、一筋縄ではいかない内容の「講演」を行ってきていて、邦書のシリーズの方が、翻訳の必要がないだけに、書くのにラクなので、自ずから邦書志向になる、という要素も全くないとは言いませんが、少し前にも示唆したように、この2年くらい、急にアングロサクソン圏の文系書籍の質が落ちたような感が拭えないでいます。
 それは、私の個人的感想というよりは、いくつもの高級紙誌群に一斉に諸書評が載るような書籍・・もとより、私の関心領域内のテーマを扱っているものですが・・がそもそも減っている、という「客観的」事実があります。
 トランプの出現は、米国のみならず、アングロサクソン圏全体の知、情、意にわたる閉塞状況の反映なのかもしれませんね。