太田述正コラム#9969(2018.7.26)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その3)>(2018.11.10公開)

 「幣原は<終戦後>すぐに・・・四ヵ条からなる・・・意見書「終戦善後策」をまとめる。・・・
 幣原は<その>第四条に<こう>記している。
 「我敗戦の原因何処(いずこ)に在るかは今後新日本の建設に欠くべからざる資料を供するものなり」<、と>。<(注2)>

 (注2)その11年後の「1956年[7月]、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述、この言葉は流行語になりました。それは、最もよく経済水準を示す指標である1人当りの実質国民総生産(GNP)が、55年に戦前の水準を超えたという意味です。・・・
 ここで比較されている「戦前」とは、1934年~36年平均を言います。故に、日本経済は、戦争のために20年間も足踏みしていたことになります。・・・
 <他方、>敗戦後10年で立ち直ったのは早かったという側面もあります。」
http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1956.html
 「言葉の初出は中野好夫が『文藝春秋』1956年2月号に発表した「もはや『戦後』ではない」である)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%99%BD%E6%9B%B8 ([]内も)

⇒「注2」からも分かるように、幣原の情勢判断は、彼が戦前に外相をしていた頃もそうでしたが、終戦直後においても、また、異なった意味で、誤りだったと言っていいでしょう。
 話は、逆で、「敗戦」ならぬ「終戦」、というより、「戦争」、の原因云々とは関係なく、「戦争」体制たる日本型政治経済体制の構築こそが、戦前から戦後へと続いた「新日本の建設」を可能にしたのですから・・。(コラム#省略)(太田)

 幣原は12月2日の貴族院における答弁で・・・「5年前戦争を主張し企図してついに開戦に至らしめた人々に対しまして、国民が公憤を感ずるのは尤ものことであると存じます」<と述べた。>

⇒戦前の日本は既に民主主義だったのであって、「終戦」に不満を抱く「国民」については、「選良」達の対英米開戦の「主張」、「企図」を聞いてそれに賛同した自分達自身に対して彼らが「憤」るにまかせておくべきなのであり、幣原のような「選良」が、(私憤に基づいて?)スケープゴート探しめいたことを煽るようなことを口にするのは、論外でしょう。(太田)

 戦争調査会<の>・・・総裁選びは思いのほか難航する。
 意中の人は牧野伸顕だった。
 戦前、元老につぐ重要な内大臣の地位にあった親英米派の牧野は、幣原が外相を務めた時の政党内閣を側面から支援していたからである。
 しかし牧野は断った。

⇒牧野としては、「調査」するまでもなく、自分が出版させた、『島津斉彬言行録』が全てだよ、というココロだったのではないか、と、ここは、思い切って想像したいところです。
 しかし、かつて、内大臣であった牧野として、天皇自身の責任論につながりかねない「調査」の担当者になることを敬遠した、という可能性が大でしょう。(太田)

 そこで幣原は、今度は若槻<(注3)>に就任を要請する。

 (注3)松江藩の足軽の子。学資不要の陸士を受けたが体格検査ではねられ、同じく学資不要の司法省法学校入校、帝国大学法科卒、大蔵省入省。蔵相2回、内相1回を経て、首相2回。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A6%AE%E6%AC%A1%E9%83%8E

 第二次若槻内閣の外相幣原にとって、当然の選択だった。
 要請を受けたものの、若槻は、・・・満州事変の不拡大に失敗した過去に言及しながら謝絶する。・・・
 「これを顧みてみると、私は腹を切ることはしないでも、せめて坊主になって世の中を隠退して、一切の政治問題には関係をしないという態度を執らなければならぬと思っている」。・・・
 やむをえず幣原自らが総裁の座に就くことになった。」(19~21)

⇒私なら、これは、かつての上司から、やんわりと、幣原自身が「戦争調査」をすること自体を止められた、と受け止めるでしょうが、幣原は、よほど鈍感だったのか、それとも図々しかったのか、そんなことでは諦めなかった、というわけです。
 (幣原外交こそが、帝国陸軍に危機感をもたらした大きな要因の一つであるところの、英国の対支政策の180度転換をもたらした、という私の指摘(コラム#省略)を思い出してください。)(太田)

(続く)

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