太田述正コラム#9971(2018.7.27)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その4)>(2018.11.11公開)

 「・・・事務方のトップに当たる長官<については、>次田大三郎内閣書記官長は庶民金庫理事長の青木得三に依頼する。・・・
 大蔵<官僚の>青木は若槻礼次郎や浜口雄幸のような大蔵省出身の民政党の政治家のあとを追っ<て、>・・・岡田(啓介)内閣(1934~36)の時の選挙粛清運動<(注4)>に関わっている。

 (注4)「<戦前の>日本<において、>・・・政党内閣が一時慣例化した。だが、その一方で選挙等にまつわる買収や贈収賄などの問題も浮上してきた。これを憂慮した後藤新平らによって国民の選挙への関心を高めるべく啓蒙活動を行うことによって選挙にまつわる腐敗を防止しようとした。これが、「選挙粛正(あるいは選挙革正)」と呼ばれるようになる。その後、浜口内閣において「選挙革正審議会」が設置されるが、五・一五事件による政党内閣の事実上の終焉を受けて、本運動は頓挫する形となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E6%8C%99%E7%B2%9B%E6%AD%A3%E9%81%8B%E5%8B%95

 「選挙を粛正して政党を浄化」することで、「軍閥政治」を避ける意図からだった。

⇒1920年代当時、「軍閥」にせよ、「軍閥政治」にせよ、支那にはあったけれど、日本にはなかった以上、日本の政界において、日本の政治に関してその種の言葉が使われた、とすれば、常識的には、それは、日本における「軍閥政治」の出現防止を図ったということでしょうが、陸軍出身の田中義一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80
が総裁を務めていた政友会を貶めるために民政党が用いたのではないか、という穿った見方もできそうです。
 いずれにせよ、井上は、若干なりとも説明をすべきでした。(太田)

 大学の同級生であったふたりは、次田が内務省、青木が大蔵省のちがいはあっても、旧民政党系の国家官僚の出身として共通する。・・・
 つぎは委員の人選である。・・・
 政治外交・軍事・財政経済・思想文化・科学技術・・・各部会の部会長名を挙げる。
 斎藤隆夫<(注5)>(衆議院議員、日本進歩党)・飯村穣<(注6)>(元憲兵司令官、陸軍中将)・山室宗文<(注7)>(元三菱信託会長)・馬場恒吾<(注8)>(読売新聞社社長、貴族院議員)・八木秀次<(注9)>(大阪帝国大学総長、電気工学、元技術院総裁)・・・である。・・・

 (注5)1870~1949年。東京専門学校卒、弁護士試験合格、エール大学留学。「1940年(昭和15年)2月2日(第75帝国議会)、「反軍演説」<を行う。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%9A%86%E5%A4%AB
 (注6)1888~1976年。茨城県出身。陸士、東京外国語学校、陸大。トルコ大使館附陸軍武官、総力戦研究所所長、南方軍総参謀長、東京防衛軍司令官、憲兵司令官。「総力戦研究所において研究生とともに「総力戦机上演習」という日米開戦となった場合のシミュレーションをおこない、日本の敗北という結論を出した。この演習では船舶の喪失が生産量を上回り、戦争遂行が困難になること、ソ連と<米国>が軍事的に協力する(演習ではソ連極東地方の米軍の軍事利用という設定)ことなど実際の太平洋戦争をかなり正確に予測した。この演習の結果は[1941年5月27・28日両日に]当時の第3次近衛内閣の閣僚にも報告され陸軍大臣だった東条英機も聞いていたが、「机上の空論」と評され、無視された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E6%9D%91%E7%A9%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%8A%9B%E6%88%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80 ([]内)
 (注7)1880~1950年。「熊本県出身。医師の・・・長男として生まれる。双子の弟に陸軍中将の山室宗武・・・。・・・東京帝国大学法科大学卒業。英米に留学した後、’10三菱合資会社銀行部に入行。」
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamamuro_m.html
 (注8)つねご(1875~1956年)。岡山県出身。東京専門学校中退(父の銀行の閉鎖による)。ジャパンタイムス(在米時代に日本の支那に対する帝国主義的侵略を批判)、国民新聞を経て読売新聞。「1941年2月、内閣情報局が総合雑誌に対して「執筆禁止者名簿」を内示したことで、矢内原忠雄、清沢洌、田中耕太郎、横田喜三郎、水野廣徳らとともに政治評論が封じられた。・・・1945・・・年12月、読売新聞社社長の正力松太郎が戦犯容疑で勾引された後、同社第8代社長に迎えられ、1951年1月まで社長を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E6%81%92%E5%90%BE
 (注9)1886~1976年。三高、東京帝国大学工科大学電気工学科。仙台高等工業学校、・・・一年志願兵として中野電信隊に入営<(最後は陸軍工兵軍曹)>・・・東北帝国大学、大阪帝国大学理学部で教鞭。「八木アンテナとして知られる八木・宇田アンテナの発明家として知られる。・・・海軍の永野修身軍令部総長の推薦を受けて技術院総裁に就任・・・1945年(昭和20年)には衆議院予算委員会で質問に応え、「技術当局は『必死でない必中兵器』を生み出す責任があるが、その完成を待たずに『必死必中』の特攻隊の出動を必要とする戦局となり慙愧に耐えない」との大意の答弁を行っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E7%A7%80%E6%AC%A1

⇒なかなか、考えられた人選だったな、とは思います。(太田)

 副総裁のポストには6月14日に芦田均(衆議院議員、日本自由党)が就任する。・・・
 戦争調査会は1920年代の国際協調の時代において体制の側にあった政治勢力の復活の現われだった。」(22~23、25)

⇒芦田は、1932年に退官して政界へ転身するまで、在官中に東大から法学博士号を授与されたことくらいが特記される、一介の外務官僚に過ぎず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E7%94%B0%E5%9D%87
いささか、井上のこのくだりの筆は滑っています。(太田)

(続く)