太田述正コラム#682(2005.4.6)
<パキスタン(その5)> 
 これに加えてパキスタンは、インド亜大陸のすべてのイスラム教徒の母国としての「国のかたち」に執着し、「世俗国家」インドと対峙してきたのですから、四方八方に安全保障上の脅威を抱えることになったわけで、安全保障の担い手たる軍が、パキスタンにおいて権力の中心たる存在になったのはごく自然の成り行きだった言って良いでしょう。
 この点は、パキスタンから1971年に分離独立したバングラデシュが、四囲をインドに取り囲まれ、基本的に安全保障上の脅威がないため、政治は混乱し続けていても、軍部が政治にしゃしゃり出たことがないことと好対照です。
 そのパキスタン軍は肥大化を続けており、1971年にバングラデシュが分離独立したことによってパキスタンの人口は二分の一に減ったというのに、当時に比べて現在は50%も兵力が増えている(http://www.atimes.com/atimes/South_Asia/GC19Df04.html。前掲)上、核兵器まで手にしています。おかげで、非軍事分野への公共支出は極めて不十分なまま推移しています。
 軍部が一国の権力の中心に居座っていると、その国がどうなってしまうのか、そのいい例がパキスタンでしょう。

 (2)パキスタン史・軍・米国
 パキスタン軍のスポンサー役を何度も演じ、結果として軍の権力維持・掌握を助けてきたのが(英国の衣鉢を継いだ)米国です。
 1953年から米国は、ソ連との第一次冷戦の一環としてパキスタンをCENTOとSEATOに組み入れるとともに、軍事援助を始めます。米国は、パットン戦車・重火器・F-86戦闘爆撃機・F-104迎撃機・B-57夜間爆撃機を提供し、これら装備品を運用するための要員の訓練を行いました。ここからパキスタン軍の肥大化の歴史が始まるのです。
 1958年には戒厳令が敷かれて二年前に制定されたばかりの憲法の効力が停止され、その直後、英陸軍士官学校出のアユブ・カーン(Ayub Khan。1907?74年)陸軍司令官がクーデターで権力を掌握します。
 アユブ・カーンは1961年に新たな憲法を制定し、翌年戒厳令を撤廃し、アユブ・カーン「大統領」の下、「文民政府」はパキスタンの近代化に努めます。
 しかし、1965年に印パ戦争が勃発し、その結果が思わしくなかったこともあって、次第にアユブ・カーン人気は下降線を辿り始めます。
 そして1969年、国民がアユブ・カーンの長期政権に飽きてパキスタン国内が争乱状態になったため、アユブ・カーンはヤヒア・カーン(Yahya Khan。1917?80年)陸軍司令官に政権を譲り、ヤヒア・カーンは戒厳令を敷く、という形のクーデターが起こります。
 ヤヒア・カーンは文民政府復活を含みに、翌1970年にパキスタン史上初めての普通選挙を実施するのですが、その結果は、西パキスタンと東パキスタンの分裂状態を白日の下に晒すことになってしまい、ヤヒア・カーンの対東パキスタン強硬策が裏目に出て東パキスタンは分離独立へと動き、インドの介入もあって、1971年、東パキスタン改めバングラデシュはパキスタンから分離独立してしまいます。
 批判の矢面に立たされたヤヒア・カーンは、同じ年に政権を投げ出し、ブット(Zulfiqar Ali Bhutto。1928?79年)を首班として文民政府が復活します。ブットは1973年に三度目の憲法を制定します。
 この文民政府も1977年、米陸軍大学(士気幕僚課程)留学・卒業のハク(Zia-ul Haq。1924?88年)(陸軍司令官改め)陸軍参謀総長による三度目のクーデターで中断させられます。ハクはただちに戒厳令を敷きます。
 1980年に成立した米レーガン政権は、1965年の印パ戦争以降中止されていたパキスタンへの軍事援助を再開し、第二次冷戦の一環として、パキスタンに(アフガニスタンに進出していた)ソ連に対する防壁としての役割を担わせるのです。
 1988年にハクが飛行機事故で死亡したおかげで、ようやく文民政府が再び復活します。
 その後、ソ連がアフガニスタンから撤退し、更にソ連自体が崩壊すると、米国のパキスタンへの軍事支援も減らされることになります。
 その文民政府の下で軍部は、1998年、核弾頭搭載可能な新型中距離ミサイルの発射実験に成功します。そして、インドがこれを咎めて(1974年に実施してから行っていなかった)核実験を挙行した時、ただちにこれに対応して核実験を実施し、インドとパキスタンは核武装するに至ります。(http://www.jnc.go.jp/kaihatu/hukaku/dk/1/6/index-j.html。4月5日アクセス)
 その「制裁」として、米国のパキスタンへの軍事支援が更に減らされます。
 ところが、1999年には英Royal College of Deffence Studies(私の留学した大学校)留学・終了したムシャラフ(Pervez Musharraf)陸軍参謀総長兼参謀総長会議議長による四度目のクーデターで文民政府は倒れ、ムシャラフが権力を掌握します。
 (以上、特に断っていない限りhttp://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/3227709.stm前掲及びhttp://www.atimes.com/atimes/South_Asia/GC19Df04.html前掲による。なお、アユブ・カーンについてはhttp://en.wikipedia.org/wiki/Ayub_Khan(4月5日アクセス。以下4典拠とも同じ)、ヤヒア・カーンについてはhttp://www.storyofpakistan.com/person.asp?perid=P018、ブットについてはhttp://www.storyofpakistan.com/person.asp?perid=P019以下、ハクについてはhttp://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_Zia_ul-Haq、ムシャラフについてはhttp://www.getpakistan.com/home/celebrity/celeb_mush.htmによる。)
 そこに2001年の同時多発テロが勃発し、それを契機に、米ブッシュ政権はムシャラフを対テロ戦争の先兵と位置づけ、パキスタンの対米債務を免除し、5年間に30億ドルの経済援助を約束し、10億ドル分の兵器の売却も約束するに至ります。
 しかもブッシュ政権は、カーン (A.Q. Khan)博士が、恐らくパキスタン軍上層部の黙認の下で核技術を北朝鮮・イラン・リビア等に売って私服を肥やしたということが2003年に露見したというのに、そのことを殆ど咎めない、というムシャラフ政権への入れこみぶりです。
 その上ブッシュ政権は、先般F-16のパキスタンへの売却まで認めました。F-16は核搭載も可能であり、パキスタンの核能力・空軍力はこれで一挙に強化されることになります。
 (以上、http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A20069-2005Apr1?language=printer(4月3日アクセス)による。)

(続く)