太田述正コラム#9987(2018.8.4)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その12)>(2018.11.19公開)

 「渡辺は敗ける戦争を始めた責任だけでなく、敗ける戦争を早く止めなかった責任も追及しようとする。
 たとえばなぜサイパン島陥落(1944年)の時に、戦争を終結しなかったのか。
 あるいは東京大空襲の時に「たった百三十機でやってきて、150トンの焼夷弾を落しただけで、帝都はあれだけの焼野原になるのだから、これが何十万トン、例えばドイツへ40万トン落とした。

⇒渡辺の典拠が何だったかですが、実際には、ドイツに英米によって投下された爆弾は160万トン弱に及びます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Strategic_bombing_during_World_War_II

 日本へはその何分の一か、10万トンでも落されたらどうなるか。
 大抵判断[が]つきそうなものだと思う。
 さらに5月にはドイツが敗れる。
 第二次欧州大戦が終結する。
 つぎはどうなるか。
 「これは子供でも分るのですが、その後日本は焼土になった訳です」。<(注17)>

 (注17)日本は、「空襲<により、>・・・全国(内地)で200以上の都市が被災、被災人口は970万人に及んだ。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。」そして、30万人前後が空襲で死んだと推定されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2
 これに対し、ドイツでは、40万人から60万人が空襲で死んだと推定されている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Strategic_bombing_during_World_War_II 前掲

⇒空襲による死者は、ドイツに比べると日本の方が少なかったようです。(太田)

 渡辺は戦争終結のタイミングを逃して無駄に国民を苦しめた責任を追及しないではいられなかった。
 渡辺は戦争責任者だけでなく、「国家困窮責任者」の責任も追及したかった。・・・
 青木長官・・・は<、渡辺の発言全体に反論して>言う。
 「戦争の原因必ずしも敗戦の原因ではない。
 戦争の原因と敗戦の原因は区別されるべきだった。
 なぜ戦争は起きたのか。
 なぜ戦争に敗れたのか。
 戦争調査会はこれら二つの問題に取り組むことになる<、と>。

⇒日本は果たして戦争目的を達成したのかどうか、が、すっぽり抜け落ちていることを別にすれば、この箇所に関しては、青木の言う通りです。
 もとより、渡辺も青木も、軍部、とりわけ陸軍が、軍事専門家でなくても明白に日本に対米英戦の勝機がゼロになった時点以降も、なお戦争継続に固執した理由、を解明すべきだと思わなかったこと、が私には不思議でなりません。(太田)

 第三部会(財政経済)の第一回が1946(昭和21)年4月16日に開催された・・・
 第三部会は山室宗文(元三菱信託会長)を部会長として、論客の渡辺<銕>蔵、小汀利得<(注18)>(おばまとしえ)(日本経済新聞社社長)のほか、三人の著名な経済学者が委員を務めていた。

 (注18)1889~1972年。島根県生まれ。早大政経卒、議員秘書、貿易会社勤務を経て中外商業新法者(日本経済新聞の前身)に入社。「「新平価海禁四人組」の一人として勇名を馳せた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B1%80%E5%88%A9%E5%BE%97

 ひとりは農業経済学者の東畑精一<(注19)>(とうはたせいいち)(東京帝国大学教授)、あとのふたりは労農派のマルクス主義経済学者の有沢広巳<(注20)>(ありさわひろみ)と大内兵衛<(注21)>(おおうちひょうえ)である。・・・」(59~60、70)

 (注19)1899~1983年。三重県生まれ。八高、東大農卒、同学部助手、助教授。ボン大学でシュンペーターに学び、帰国後教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%95%91%E7%B2%BE%E4%B8%80
 (注20)1896~1988年。高知県生まれ。二高、東大経卒、同学部助手、助教授。ドイツ留学。帰国後、「1938年、・・・人民戦線事件により大内らと共に治安維持法違反で起訴され、東大を休職処分となる<が、>・・・1944年9月に、二審で無罪となる。戦時中は昭和研究会で「日本経済再編成試案」を作成したところ財界から反対され、秋丸機関(大日本帝国陸軍)に所属し、欧米と日本の経済比較を行った。敗戦後の1945年、東大経済学部に教授として復帰・・・再生産表式から着想を得て戦後復興期における政府の傾斜生産方式(石炭・鉄鋼等、主要産業の復興を優先する方式)の立案者となる。1950年 経済学博士 「日本工業統制論」 。1956年に東大を退官。退官後は、法政大学経営学部教授・総長(1956年~1962年)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%B2%A2%E5%BA%83%E5%B7%B3
 (注21)1888~1980年。兵庫県生まれ。五高、東大法学部経済学科首席卒業。「大蔵省の書記官を経て、1919年に、新設された東大経済学部に着任、助教授として財政学を担当した。在任中は労農派の論客として活躍。1920年森戸事件に連座して失職、・・・私費で<欧州>留学<し、>・・・数年後復職。・・・1938年 人民戦線事件で検挙、休職、1944年 同事件無罪確定、大学辞職、1945年 東京大学復職」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E5%85%B5%E8%A1%9B

⇒マルクス経済学などという疑似科学・・非マルクス経済学も、心理学を取り入れた最近のものを除き、果たして経験科学と言えるのか疑問があることには立ち入らない・・信奉者達が活躍していた戦後の一時代、いや、それよりも、もっと広く、戦前から戦後にかけて、東大の学者達がもてはやされていた時代、が、かつてあったということが、懐かしく思い出されます。(太田)

(続く)