太田述正コラム#9989(2018.8.5)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その13)>(2018.11.20公開)

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[「大東亜共栄圏」の「虚構」について]

青木の大東亜共栄圏に係る発言は、共栄圏の理念自体の是非は措くとして、日本政府にはその理念を追求するつもりなどなかったという趣旨である、と合理的に解することとして、それは、下掲↓の、インドネシアの最近の教科書のスタンス・・司馬史観(注22)・・を先取りし、或いは、ネルーの当時の発言を援用し、たものであった、とも解することができそうだ。

 (注22)司馬遼太郎は、「戦前のすべてを悪しきものとして否定する進歩史観<に対し、>・・・「明治と昭和」を対置し、「封建制国家を一夜にして合理的な近代国家に作り替えた明治維新」を高く評価する一方で、昭和期の敗戦までの日本を暗黒時代として否定し<た>。」
http://www.yama-mikasa.com/entry/2017/09/28/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E5%8F%B2%E8%A6%B3%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B_
 単純化すれば、前者が戦後日本の「左」、後者が戦後日本の「右」、のそれぞれ「公的」史観となった。

 「インドネシアの高校歴史教科書(2000年版)には、こう書かれている。
 「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた。(中略)太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである・・・<と>日本の勝利をアジアの諸民族は歓迎した<。
 しかし、>その後、日本が対外強硬路線に傾いたため、急速にアジアの支持を失うことになった。
 インドネシアの教科書にも「日本の支配地においては日本化が広く行われたが、これはアジアにおいて西洋帝国主義の地位に取って代わろうするためであった」などと、批判的に書かれている。
 <また、>インド初代首相のネルーは、日本の勝利にいかに勇気づけられたかを著書に記す一方、「(日露戦争の結果)少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった」と、日本への失望を痛烈に書き残している。」
http://www.sankei.com/premium/news/180805/prm1808050002-n1.html
(8月5日アクセス)

⇒ネルーの見解は、彼が、(マハトマ・ガンディー同様、)意識上は殆どイギリス人だった(コラム#省略)ことから、日英同盟下での日本の対外政策を是とし、日英同盟解消後の日本の対外政策を非としているだけのことであろうし、インドネシアの教科書は、このイギリスを始めとするところの、旧宗主国のオランダ等、欧米諸国の見方と、何よりも、幣原らに始まったところの、戦後日本の、司馬遼太郎史観、を反映しているだけのことだろう。 
 実際はどうだったか。
 既に太田コラム読者にとっては共通認識になりつつある、と私が期待しているところだが、顕教は横井小楠コンセンサス、密教は島津斉彬コンセンサス、で日本の陸軍(の少なくとも上層部)は一貫しており(コラム#9902)、これに加えて、次回のオフ会「講演」で、幕末から大正の中途まで、そして戦前昭和期の途中からは、島津斉彬コンセンサスが日本政府の対外政策の密教にもなっていた・・大戦期には顕教にすらなった、ことを説明する予定だ。
 つまり、「日清日露と第一次世界大戦の間の日本政府の対外政策」(A)、と、「満州事変、日支戦争、大東亜戦争の間の日本政府の対外政策」(B)、とは同じなのであって、司馬史観は誤りなのだ。
 もとより、Bにおいては、長期的な恒常的有事状態の下で、有事が間歇的にしかなかったところの、Aにおいてとは異なった形で遂行されざるを得ない部分があったことを、我々は銘記すべきだろう。
 (例えば泰緬鉄道建設におけるヒトの強制に近い徴用。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E7%B7%AC%E9%89%84%E9%81%93 )
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(続く)