太田述正コラム#9995(2018.8.8)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その16)>(2018.11.23公開)

 「日本経済再建の基本問題」の一節は言う。
 「一方資本主義自体も・・・畸形的な発展を辿った結果、国内市場が開拓せられず早期に帝国主義段階に到達し武力による植民地および海外市場の獲得に向うこととなった。
 かくて日本経済全体に極めて濃厚な軍事的性格が与えられたのである・・・
 かつて昭和5、6年の頃、世界的不況の影響による国内に多数の失業者を生じた結果種々の社会不安を発生し、ひいては満州事変の勃発と共に後に於ける軍国主義化を齎したことは未だ記憶に新しい」。・・・
 <これは、まさに、>マルクス主義経済学の歴史観の典型例である。・・・
 要するに「日本経済再建の基本問題」の歴史観は、後進国日本が戦争に打って出る必然を強調していた。
 
⇒バイブルというふれこみから、ホンモノの聖書、とりわけ、旧約聖書のように、荒唐無稽ながら面白いのかと思ったら、レーニンの『帝国主義論』(注27)を小学生向けに易しく説いた、マルクス主義、というか、マルクスレーニン主義、の教科書のような中身で、失笑してしまいました。(太田)

 (注27)1917年出版。「巨大な生産力を獲得した独占体に対し、国内大衆は貧困な状態に置かれたままになり「過剰な資本」は国外へ輸出される。この資本輸出先を巡り資本家団体の間での世界の分割が行われる。やがてこれは世界の隅々を列強が分割し尽くすことになり、世界に無主地はなくなる。資本主義の発展は各国ごとに不均等であり、新興の独占資本主義国が旧来の独占資本主義国の利権を打ち破るために再分割の闘争を行う。したがって、再分割をめぐる帝国主義戦争は必然である。」と説いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%AB%96

 このような歴史観と類似する第三部会の当初案に示される歴史観に対して、ことごとく反論を試みたのが渡辺である。
 渡辺はたとえば「領土拡張で行かなくても経済的発展で十分補えたのだという証明も出来る」と言う。
 あるいは「金解禁が日本を非常に貧乏にしたとか、そういうことが強く宣伝されたが、それら戦争誘発に関して経済上の問題につき誤解があった点を探明する」べきだと批判する。

⇒「日本経済再建の基本問題」ないし「第三部会の当初案」の紹介の中で出てこないのに、突然金解禁の話が出てくるので戸惑ってしまいます。(太田)

 渡辺は日中戦争勃発時の国際連盟における中華民国代表顧維鈞<(注28)>の演説を引用する。

 (注28)こいきん(Vi Kyuin Wellington Koo。1888~1985年)。「1901年キリスト教聖公会経営の上海聖約翰書院に入学・・・コロンビア大学に入学、1908年文学士、1909年政治学修士、1912年国際法・外交博士を取得した、・・・袁世凱の英文秘書を経て、1912年8月に国務院秘書、1914年外交部参事、1915年7~10月駐メキシコ公使、同年10月~1920年9月駐米公使兼駐キューバ公使・・・1919年パリ講和会議全権代表、1920年9月~1922年5月駐英公使となり、この間、1920年国際連盟中国首席代表、1921年~1922年ワシントン会議全権代表・・・1922年~1923年外交総長、1924年代総理(国務総理代行)兼外交総長。・・・1926年5月・・・財政総長兼関税委員会主任委員、10月・・・代総理兼外交総長に就任、1927年6月まで務めた。1928年国民革命軍による北京占領後、・・・フランス、カナダへ逃亡。1929年・・・帰国し、・・・1931年に・・・国民政府に参加し、外交部長に任ぜられた。1932年・・・国民党中央政治会議外交委員に就任した。1936年に駐仏大使に就任し、ついで1941年から・・・1946年<まで>駐英大使・・・。・・・また1945年には国民党六全大会で中央執行委員に選出・・・。1946年に駐米大使に転じ、・・・1956年台湾総統府資政、その後1957年~1967年国際司法裁判所判事に任命される。1967年に引退してニューヨークに移住」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%A7%E7%B6%AD%E9%88%9E

⇒支那にとって、あの激動の時代に、何と、北京政府から中国国民党政府へとうまく渡り歩いた人生、しかも、その間、累次にわたって健康地における外国生活を満喫する人生、を送ったものよ、と、顧のキラキラ名に近いイングリッシュ名ともども、呆れるやら感心するやら。(太田)

 満州には日本人はわずかしか入っていない。
 朝鮮から日本に入った方が多いくらいだ。
 なぜ日本は日本よりもはるかに人口稠密な河北省に入ろうとするのか。
 日本は北海道すら開拓していないではないか。
 顧維鈞がこのように演説すると「拍手が止まなかった」。」(74~75)

⇒日本にとって、そのアジア進出は、もっぱら安全保障目的と人間主義的目的のためだったからだよ、と、墓の中の顧維鈞に教えてやりたいものです。(太田)

(続く)