太田述正コラム#9997(2018.8.9)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その17)>(2018.11.24公開)

 「渡辺は顧維鈞に仮託して、人口問題の解決を目的とする対外膨張の必然性に強い疑問を投げかけた。
 日本が後進国であることは、渡辺にとって戦争の誘因ではなかった。
 当初案に対する渡辺の対案・・・を3項目に要約して対案の要点を記す。
 第一に日本の経済力の過信を相手国の英米との比較をとおして明らかにする。
 渡辺は指摘する。
 「こんな違いがあったのだから無理ではないかということを調べる必要が起るかも知れない」。

⇒戦争が長期化すれば「敗戦」が必至であることは、少しでも事情に通じていた人であれば誰でも分かっていたけれど、「敗戦」に終わっても戦争目的は達成できる、というのが陸軍上層部の認識であったのではないか、ということを、このところ、私は指摘し続けているわけです。(太田)

 第二に経済的発展でよかったはずがなぜ戦争になったのか。
 「領土的拡張で行かなければならぬという考えが勝った為め斯様な戦争になったものだと思う」。

⇒典拠を示してみろ、と言いたくなります。(太田)

 そうだとすれば、人口問題や資源不足が戦争の誘因ではなかったことになる。
 第三に戦時中の経済の状況を調べなくてはならない。
 戦時経済状況とは、具体的には物資動員計画、統制経済、物価政策、食糧政策、金融政策、海運政策などの欠陥(あるいは「長所」)が戦争誘引になった過程のことである。
 この点に関連して渡辺は、中国の占領地域における経済工作がインフレを引き起こした過程も研究すべきであると付言している。
 渡辺は戦後日本の再建構想よりも、戦時経済の実態の方により強い関心があった。
 有沢委員は・・・渡辺の考えに反対・・・<では>なかった。
 大内委員は「結構である」と同意している。
 <結局、>第三部会の調査項目は渡辺の対案に準じたものになった。
 付け加えると小汀委員の発言「大体日本人は調査というものは嫌いだから」が注目に値する。
 渡辺も同感だった。
 「日本では一流の政治家が数字とか統計のことを言うと軽蔑する」。

⇒ここも典拠を示してもらいたかったですね。(太田)

 戦争の原因はここにもあるようだった。
 なお「日本経済再建の基本問題」も、戦時下の経済政策の「長所」をめぐって、渡辺と問題関心を共有するところがあった。
 この報告書は戦時下における農業の機械化および協同化の経験として、つぎのように指摘している。
 「農村における労働力の不足は、戦時中農業の機械化および協同化を促進する傾向を齎した」。
 具体的には「電動力を利用する脱穀調整のごときは戦時中著しく発展し、特に施設の協同利用が盛んに行われた」。
 具体的な数字を示すと、つぎのとおりである。
 動力脱穀機は1937年=12万8620台から1942年=35万7129台、動力籾摺機は1937年=11万7738台から1942年=20万4548台、動力耕運機は1937年=537台から1942年=7346台へと飛躍的に増加している。
 働き手を戦場に奪われた農村では、機械化と協同化が人手不足を補った。
 戦争は農業の機械化と協同化を促進した。・・・
 このような戦時下の農業の機械化<(注29)>と協同化<(注30)>は、戦後の日本経済にとって「有利」な前提条件だったことになる。」(75~78)

 (注29)「だが、それらの所有者は主として大農家や請負業者であった。・・・
 戦後の農地解放により農家の大部分は自作農となり、増産技術の導入を積極的に行なうようになった。その結果 耕うん機や勅力噴霧機を中心に急激に普及することになり、とくに昭和25年(1950年)頃、<米国>から導入されたメリティラ(小型耕うん機は、家蓄用の犂トラクター用に改良した凌用犂をセットして耕うん作業に、また簡易トレーラーをセットし運搬業に使われ、爆発的に普及した。これらの歩行型トラクターは昭和30年(1855年)には約8万台の普及であったが、昭和42年(1967年)には300万台以上となり、日本の農業機械の歴史の中で最も急激な増加率を示した。これらの動力源は、当初はモーターや低速の石油発動機だったが、次第に中高速の石油発動機、ガソリンエンジン、ディーゼルエンジンなどに代わっていった。」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=232219
 (注30)「江戸時代の天保期、農政学者・農村指導者の大原幽学が下総国香取郡長部村(現・千葉県旭市長部)一帯で興した先祖株組合が、日本における農業協同組合の始まりとされる。一方、近代的意味における農業協同組合の前身は、明治時代に作られた産業組合(1900年)や帝国農会(1910年)にさかのぼる。太平洋戦争中、生産物を一元的に集約する目的で「農業会」という統制団体に改組された。
 戦後の農地改革の一環として、GHQは欧米型の農業協同組合(行政から独立しており、自主的に組織できる)を作ろうとした。だが、当時の食料行政は深刻な食糧難の中で、食料を統制・管理する必要があった。そのため、1948年(昭和23年)、既存の農業会を改組する形で農協が発足した。・・・このような設立の経緯から、農民の自主的運営というよりは、上意下達の組織という側面をもっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E5%8D%94%E5%90%8C%E7%B5%84%E5%90%88

⇒皮肉な見方をすれば、戦時中の、日本型政治経済体制確立と手を携えて進展したところの、日本の全産業の高度化、とりわけ、「資本主義」の中核たる工業の「<高度>機械化と協同化」を、『日本経済再建の基本問題』の執筆を主として担ったマルクス経済学者達が描きたくなかっために、農業の「機械化と協同化」だけを描いてお茶を濁した、ということではないでしょうか。
 なお、農商務省が商工省と農林省に分割された1925年(注31)から満州事変まで6年、日支戦争まで12年、大東亜戦争まで16年しか経っていないところ、日本型政治経済体制の構築は、商工、農林両省が提携して推進中枢を担った、と想像されるところです。(太田)

 (注31)「農商務省の2分割は農業関係団体からの「農務省」設置要求の建議が数年間にわたって繰り返されてきたことによる。その契機は大正期にはいってからの米価高騰により外国産米輸入措置に対しての農業関係者からの反発が主原因である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%95%86%E5%8B%99%E7%9C%81_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

(続く)