太田述正コラム#10003(2018.8.12)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その20)>(2018.11.27公開)

 「中村孝也<(注34)>(こうや)(元東京帝国大学教授、日本史専攻)委員も、歴史研究者ならではの指摘をしている。

 (注34)1885~1970。「父は士族で小学校教員・・・群馬県師範学校、東京高等師範学校を経たあと、1909年(明治42年)、東京市・・・の・・・小学校に就職。その傍らで東京外国語学校(夜学)に入学。ドイツ語を専攻し、1912年(明治45年)に修了・・・。
 1910年(明治43年)、東京帝国大学文科大学国史学科に入学。・・・1913年(大正2年)に東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。・・・恩賜の銀時計を受ける。・・・1918年(大正7年)に東京帝国大学大学院を修了したのち、・・・東京帝国大学経済学部に入学し経済学を学んだ。そして、・・・1926年(大正15年)に文学博士・・・
 1925年(大正14年)に史料編纂官となり、1926年には東京帝国大学助教授を兼任。・・・講座の担当はなかった。1935年(昭和10年)に東大の組織の改変により東京帝国大学助教授兼史料編纂官となり、文学部の勤務が主となった。そして、1938年(昭和13年)に東京帝国大学教授に就任。国史学第二講座を担当し、江戸時代史と近世社会史を講じた。
 中村が教授に昇任したとき、東大の国史学科は平泉澄が主任教授であった。平泉が「朱光会」や私塾青々塾で、いわゆる皇国史観を説いていたが、中村はこうした平泉の行動に一線を画し、国史学研究室にも足を向けない程であった。平泉に反発する学生が中村のもとに集まり、1940年(昭和15年)には中村<を>会の代表とする「国民生活研究会」という研究会が結成された。・・・
 GHQにより教員不適格者と判定されてしま<い、>・・・1951年(昭和26年)に教職追放解除となってからは、明治大学で教壇に立<った。>」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%AD%9D%E4%B9%9F

⇒私は、残念ながら中村の著書を読んだことがないのですが、彼の経歴を見て、こういう、優秀で、勉強するのが、特に幅広く勉強するのが、大好きで、時流に流されない、人が、歴史学者になって欲しい、とつくづく思います。(太田)

 「山中に入って山を見ずで、今われわれは山の中にいるから、全貌を見られない。
 時間的に、場所的に若干距離を隔てると、全貌が見える」。
 結論は後回しにして、さきに資料を集める。
 戦争に至る経緯の全体像は、時間と場所を隔てなくては描けない。
 中村はそう言っている。

⇒初めて、非の打ちどころのない発言に接した感があります。
 この発言には、幣原以下の、当調査会の同僚メンバー達の浅薄な諸史観を批判する含意もあったのではないでしょうか。(太田)

 井上の言うとおりだとすれば、当時から約70年を経た今こそ、それらの資料を用いて全体像を描くべきだろう。・・・」(84)

⇒このくだりに、戦後日本の日本近現代史学者達の怠慢を責める含意を感じるのですが、そうだとすれば、井上に全面的に同意です。
 この本が上梓された昨年秋に既に61歳近かった、井上は、自分自身をも叱咤した、と、私としては信じたいところです。
 私には、こういうことを言う権利があると思っています。
 何せ、何とも奇妙な戦後日本の由来について、納得のいく説明をしてくれる歴史学者・・政治学者を含みます。井上自身が政治学者兼歴史学者です・・が、世界中に一人もいないため、浅学菲才の身を嘆きながら、自分自身で、その説明をすべく、半世紀近くも四苦八苦してきたのですからね。(太田)

(続く)