太田述正コラム#10017(2018.8.19)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その27)>(2018.12.4公開)

 「食糧危機の問題は4月30日の第3回・対日理事会で取り上げられた。
 アメリカは日本に同情的だった。
 アチソンは言う。
 「吾人はこの国に於て飢餓を阻止すべき道徳的な義務を有するものである」。
 ただしこの発言は「道徳的」というよりも、占領政策を遂行する現実的な観点からだった。
 アチソンはこの一節の直前に言っている。
 「もし不安が起こればこれによって単に重大なる軍事的困難のみならず政治的困難も生ずるのである」。
 イギリス代表は冷酷だった。
 「侵略国日本が周辺諸国に比し多少飢餓に襲われ、又配給の引下げが行われるとするも右は止むを得ぬことではないか」。

⇒これは、英国が日本に対して冷酷だったとしか読めない叙述であり、井上もそう考えているようですが、英国が、対独戦を、独ソ戦が始まるまでほぼ一国で戦うという窮状に付け込む形で、米国が、英国の懇願に応えた形での第二次世界大戦への参戦を通じ、名実ともに全球的覇権国の地位を英国から奪ったこと、に対する意趣返しの要素もあったのであり、米国だけに食糧援助(「注49」参照)をさせようとした、という推測が成り立つところ、こういったことに朝海は恐らく触れておらず、井上もまた触れていないこと、は片手落ちです。(太田)

 イギリス代表の強硬論にはソ連といえども与することはなかった。
 ソ連代表は食糧輸入問題を研究するグループの設置を提案した。

⇒一例示ですが、「1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデーには、25万人の労働者が参加して「飯米獲得人民大会」が開催された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E5%B8%82 前掲
ところ、当然のことながら、こういった運動を日本共産党も強く推進していたところ、その背後にはソ連がいたわけであり、そんなソ連が、マッチポンプ的に食糧問題解決の足を引っ張るわけにはいかなかったと推察される、といった事情に、ここでも、井上は触れるべきでした。(太田)
 
 翌6月12日の第6回・対日理事会ではアチソンが最初に食糧危機の問題を上程する。
 アチソンは過去約半年の間に京浜地区で1200から1300人が餓死し、先月は267人に達したと報告している。
 それでもイギリス代表は頑なだった。
 「日本が食糧問題の解決を自己の努力に於て求めんとすることは結構であると思う。
 けだし右によって海外からの食糧の輸入を減少せしめ得るからである」。

⇒ホンネに近い発言ですね。(太田)

 食糧危機をめぐって、日本に対する米英の立場の相違は明確だった。」(98~99)

⇒もともと、あらゆる事柄に関して「米英の立場の相違は明確」なのであり、英米一体論に戦前から戦中にかけて固執し続けた、日本の外務省と海軍のアホさかげんに改めて呆れてしまいます。
 どうやら、朝海に、そのことについての、慚愧の念、いや、そこまで行かなくても、問題意識の萌芽すら生じなかったようであることからして、日本の外務官僚達は、長老の幣原から中堅の朝海に至るまで、当時、既に救いようがないほど無能であった、とさえ言いたくなります。(太田)

(続く)