太田述正コラム#10041(2018.8.31)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その39)>(2018.12.16公開)

 「第三に海軍は当初、ロンドン海軍軍縮条約の締結に同意していた。
 しかし加藤寛治<(注55)>(ひろはる)海軍軍令部長と末次信正<(注56)>海軍軍令部次長のコンビが対米英七割に固執する。」(145~146)

 (注55)1870~1939年。「元福井藩士・・・の長男。息子・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。 」海兵(首席卒業)、海大は行っていないが海大校長は務めている。
 「ワシントン会議には首席随員として赴くが、ワシントン海軍軍縮条約反対派であったため、条約賛成派の主席全権加藤友三郎(海相)と激しく対立する。しかしワシントン軍縮条約後の人員整理(中将は9割)で、“ワンマン大臣”と呼ばれた加藤友三郎が加藤寛治を予備役に入れず、逆に軍令部次長に据えたことなどから、加藤友三郎は加藤寛治を後継者の一人と考えていた可能性さえあり、両加藤の間に決定的な対立は存在しなかったという見方もある。・・・
 1929年(昭和4年)1月、・・・海軍軍令部長に親補された。ロンドン海軍軍縮条約批准時にも巡洋艦対米7割を強硬に主張し反対、首相・濱口雄幸、海相・財部彪と対立。これが統帥権干犯問題に発展し、1930年(昭和5年)6月の条約批准後、帷幄上奏(昭和天皇に直接辞表提出)し軍令部長を辞任。岡田啓介ら条約派に対し、伏見宮博恭王・末次信正らとともに艦隊派の中心人物となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AF%9B%E6%B2%BB
 (注56)1880~1944年。「[長州藩の支藩の]旧徳山藩士・・・の次男として山口県に生まれる。」
 海兵(114名中50番卒業)、海大(首席卒業)。
 「1914年(大正3年)に渡英。従軍武官・・・在英中に作成した「対米戦略論」では、潜水艇によるパナマ運河及びハワイの閉塞作戦に始まり、西太平洋での迎撃を想定した五段階の漸減戦略を構想している。・・・1919年(大正8年)の軍令部第一課長(作戦課長)。1922年(大正11年)のワシントン軍縮会議では次席随員を務める。条約案に反対し、首席随員である加藤寛治と共に全権・加藤友三郎に抵抗したが、条約は締結された。
 12月1日、慣例では少将が補職される軍令部第一班長(作戦部長)に大佐で就任した。 日本海軍の作戦指導書海戦要務令の作成に携わり、対米作戦の改善を進め、対米作戦の完成者との評価もある。・・・
 1929年(昭和4年)、軍令部次長に進んでいた末次はロンドン海軍軍縮会議を迎えることとなる。・・・
 1930年(昭和5年)・・・3月17日、海軍は軍縮条約に不満があるという海軍当局の声明が夕刊に掲載された。海軍省が関知しないものであり、加藤寛治も知らないものであった。この声明により海軍部内に対立があることが表面化したが、声明をもらしたのは末次であった。・・・
 6月7日、昭和天皇に軍事の進講をした際、軍縮条約に強硬に反対する旨を述べた。これは既に軍縮条約締結に賛成した海軍省及び軍令部の方針に反するもので、天皇の不興を買った。
 6月10日、末次<は、>山梨勝之進<と共に、>それぞれ軍令部次長、海軍次官から更迭された。・・・
 右翼的傾向があり、国家主義者でもあった末次は、連合艦隊司令長官の頃から政治的野心を持ち始めたといわれ、平沼騏一郎・松岡洋右・近衛文麿と交流を持ち次第に政治力を強めていった。陸軍では当初、荒木貞夫、真崎甚三郎ら皇道派とつながりがあったが、のちに林銑十郎と親密な関係にあった。国家革新を必要とする考えを持っていた近衛が新党結成を目指した際、末次はその相談役となった。近衛新党結成運動はのち大政翼賛会に結実する。末次は大政翼賛会中央協力会議議長、<等>・・・を務めた。・・・
 第1次近衛内閣の内務大臣。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E4%BF%A1%E6%AD%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B1%B1%E8%97%A9 ([]内)

⇒加藤寛治は、私が、島津斉彬コンセンサス信奉者と見ている武藤信義(次回オフ会「講演」原稿参照)とウマが合ったからこそ、息子を武藤の養子にしたのでしょうが、加藤自身が、いつ同コンセンサス信奉者になったのか、いや、そもそも、武藤との出会いより前から信奉者であったのか、分かりませんし、末次信正は、後半生において、同コンセンサス信奉者的であったことは確かではあっても、これまた、前半生のいつ、同コンセンサス信奉者になったのか、いや、そもそも、前半生において信奉者であったのか、分かりません。
 いずれにせよ、加藤はともかく、末次は、(軍事)官僚失格、どころか、組織人失格です。
 そんな人物を治安を掌る内相に就ける近衛も近衛ですが・・。(太田)

(続く)