太田述正コラム#10057(2018.9.8)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その44)>(2018.12.24公開)

 「<五・一五事件で>犬養を襲った首謀者のひとりで陸軍士官学校の篠原市之助<(注63)>は、1933年7月27日の裁判において、つぎのように陳述している。

 (注63)「篠原市之助氏は五・一五事件に挺身、出獄後渡満伊達順之介の翼下に投じ部隊参謀、その後関東軍蒙彊五原特務機関にて最前線工作に従事しありたるも、吾に数倍する敵襲を受け、守備隊退却したるに、特務機関員として非戦斗要員たるにかかわらず最後まで五原城頭を死守してゆずらず、身に数弾をうけ身体の自由を失うに至り、割腹して己の内臓を敵に投つけ、・・・戦死を遂げた。」
https://takushoku-alumni.jp/kasyu/moukyouhoutou
 「伊達順之助・・・明治25年~昭和23年(1892~1948)軍人。明治25年1月6日,宇和島藩八代藩主伊達宗城の孫で,東京に生まれる。・・・近衛篤麿らと粛親王の清朝回復運動に奔走し,大正13年,満州馬賊,蒙古軍,大陸浪人,予備役陸軍将校,下士官を糾合して,「満蒙決死団」を結成して,東北軍閥の総帥張作霖の暗殺を企図して失敗する。のち張作霖の軍事顧問になったり,満州国軍中将,山東自治連軍総司令・大将となって3万余の軍勢を率いて全満州で日本軍の別動隊として活躍する。昭和6年には<中華民国>に帰化して張宗援と称し,同7年満州国建国とともに陸軍少将となる。同12年退役して山東省で「山東自治連軍」を結成し,日本の大陸経営に陰の力となって活躍する。5・15事件で陸軍士官学校を追われた篠原市之助(川之江市出身)は自治連軍の参謀長であった。生涯を大陸に身を置き,〝満蒙〟の独立運動に活躍したが,第二次世界大戦後,<支那>の上海監獄で戦犯として処刑された。・・・壇一夫の著『夕日と拳銃』のモデルともなった人物である。」
http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/57/view/7509

⇒ここにも、伊達順之助という、(島津斉彬コンセンサス信奉者たる)アジア主義者の「大物」がいましたね。(太田)

 「現在の政党は、此非常時に於ても政権に執着して挙国一致の意思のないことは、民政党内閣が現在政友会内閣になったことで判って居ります。
 又合法的手段が他にないのであります。
 私共にはないのであります」。
 軍縮条約をめぐる二大政党間のちがいはどうでもよかった。
 二大政党による政党政治を打破しなければならない彼等て、犬養の暗殺に疑問の余地はなかった。・・・
 西園寺は<憲政の常道に従って、>衆議院の多数政党<たる>政友会<の>総裁鈴木喜三郎・・・<を>後継<に>・・・選ぼうとする。<(注64)>

 (注64)「陸相の荒木貞夫も・・・鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない」と発言したと報じられた。だが翌20日、陸軍の少壮将校がこれに反発し、政友会単独内閣成立に強く反対していることが報じられ、不穏な情勢となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F

 そこへ、天皇からの「希望」が伝えられる。
 今日の研究は、天皇の「希望」の背景に政党内閣への不信感と軍部の暴走への危機感があったと指摘している。・・・

⇒本件についての、天皇の取り巻き等による、この趣旨の証言(群?)があるのかもしれませんが、前年6月の張作霖爆殺事件を受け、1929年6月末、天皇は、弥生モードから縄文モードへのモード転換示唆を、時の首相の田中義一に対して行っており(コラム#9902、10042)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「軍部の暴走への危機感があ」ろうとなかろうと、天皇によって、早晩、アングロサクソン的「政党内閣への不信感」に基づく挙国一致内閣樹立示唆が行われたはずです。(太田)

 <結局、>西園寺は・・・政党政治家ではなく、ロンドン海軍軍縮条約に賛成した海軍の「穏健派」斎藤実<(注65)(コラム#5182、5598、5686、8114、10042)>(まこと)海軍大将を推薦した。
 斎藤内閣は犬養内閣の置き土産とも言うべき高橋是清蔵相の留任を得る。・・・」(103~104)

 (注65)齋藤實(1858~1936年)。「仙台藩水沢城下(現在の岩手県奥州市水沢)に、当地を地方知行により治めていた水沢伊達氏に仕える藩士・・・の子として・・・生まれた。」海兵。「<米国>留学兼駐米公使館付駐在武官・・・1898年(明治31年)・・・山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、艦政本部長を経て1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、第1次山本内閣まで8年間つとめた。1912年(大正元年)、海軍大将。1914年(大正3年)、シーメンス事件により海軍大臣を辞任し、予備役に編入された。 1919年(大正8年)、・・・現役海軍大将に復して第3代朝鮮総督に就任・・・ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員、枢密顧問官への就任を経て1929年(昭和4年)に朝鮮総督に再任され1931年(昭和6年)まで務めた。」(上掲)

⇒改めて、斎藤の事績を振り返ってみると、彼も、少なくとも、旧薩摩藩出身の山本権兵衛のラインで、島津斉彬コンセンサス信奉者になっていた可能性が大ですね。
 そうだとすれば、彼が日本の首席全権代表を務めた、ジュネーブ海軍軍縮交渉が失敗したのもむべなるかな、です。(太田)

(続く)