太田述正コラム#10061(2018.9.10)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その46)>(2018.12.26公開)

 「・・・1935年・・・、日中関係は修復に向かっていた。
 1月の議会において広田弘毅外相は、「在任中戦争なし」と演説している<(注68)>。・・・

 (注68)「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
を端折り過ぎだ。

⇒1935年は、「7月25日から開会された第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
と、日本の伝統的主敵のロシア(ソ連)が、中国国民党政府を尖兵に用いるという、実際に実行に移されるところの、対日作戦計画を作成した年であり、同年には「日中関係は修復に向かっていた」、との井上の認識が、一体、どこから来たものやら、私には想像もできません。
 また、広田は、私の言う島津斉彬コンセンサス信奉者であって、早い時期から、杉山元と志を同じくしていたと私は見ており(コラム#9902、コラム#10042)、広田のこの外相演説は、戦争の必然性を信じつつ(注69)、単に、日本側から手を出すことはない、と言っただけでしょう。
 
 (注69)広田は、1934年4月に外務省情報部長による「東亜モンロー主義」宣明を黙認したり、1935年には、陸軍「は衝突が起こるたびに独自に<支那>側と交渉し、梅津・何応欽協定や土肥原・秦徳純協定を結ばせた<ところ、国民党政府>側は<日本の>外務省に仲介を求めたが、「本件は主として停戦協定に関聯せる軍関係事項なるを以て、外交交渉として取り扱うに便ならず」として拒絶した」り、「一見して明らかなとおり、日本側の一方的な<対支>要求に終始してい<る>・・・広田三原則<を>・・・外務・陸・海の3大臣の了解事項と<した>り」する、等
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
戦争準備を着々と行っていた。

 ジャーナリスト岩淵辰雄<(注70)の当時の論稿であるところの、>・・・『世界週報』に連載された「日本右翼運動史」<は、>・・・斎藤内閣期の国内政治社会状況を描いている。

 (注70)1892~1975年。「宮城県出身。早稲田大学文科を中退。1928年から自由通信社、国民新聞、読売新聞、東京日日新聞の政治記者。その後は政治評論家として雑誌『中央公論』・『改造』で執筆活動を行った。・・・
 太平洋戦争末期の1945年初め、岩淵は近衛や吉田茂を中心とした、いわゆる「ヨハンセングループ(吉田反戦グループ)」による早期終戦の和平工作に参加して「近衛上奏文」の草稿作成に関与した。彼はこのグループ内で最も活動的な工作者として皆を励まし引っ張っていく役回りであり、このため同年4月に吉田茂・殖田俊吉とともに憲兵隊に逮捕された・・・ものの、その後釈放された。
 敗戦直後の時期<に>・・・近衛に憲法改正案を作成するよう説得した。しかし彼の案が保守的内容であったことに失望し、11月、高野岩三郎を中心とする憲法研究会に参加、民間からの改正案作成に従事することとなった。彼の改憲構想は天皇から大権を除去して国民主権を実現し天皇は象徴的存在にとどめるというもので、同年末、研究会はその案を盛り込んだ「憲法草案要綱」を発表した(その後「要綱」は、これを入手したGHQによって検討され「マッカーサー草案」の内容に影響を及ぼした)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B7%B5%E8%BE%B0%E9%9B%84

 「・・・自由主義者が漸次その勢力の回復を示しつつある諸種の徴候が、公然社会の表面に現れるようになった・・・当時未だ日本の社会思想を左右していた左翼自由主義は、軍部の政治関与をもって、わが政体からしても不当なりとしてこれを手痛く論難した」<、と>。

⇒ここでの、「自由主義」/「左翼自由主義」は、弥生モード固執主義であったのに対し、縄文モード回帰を求める声は、(上は天皇から)選良達と民衆達の間に広がっており、ここでの、「軍部の革新運動」は、その小さい一部に過ぎなかった、という、重要かつ基本的な認識が井上には欠けています。(太田)

 このような自由主義陣営の台頭に対して、軍部の革新運動の側の対抗措置が、1933(昭和8)年12月9日の荒木(貞夫)陸相による「軍民離間に関する陸相談話」<(前出)>だった。・・・
 政党の側も黙ってはいなかった。
 第65議会において、安藤正純<(注71)>や斎藤隆夫が軍部批判を展開して、1934年1月に新木陸相を辞任に追い込んだ。・・・」(170~172)

 (注71)1876~1955年。「東京府東京市浅草区浅草松葉町(現在の東京都台東区松が谷)にある、真宗大谷派・・・の住職の子として生まれ、僧籍を有する。・・・1895年に哲学館(現・東洋大学)、1899年に東京専門学校(現・早稲田大学)哲学科をそれぞれ卒業。陸羯南主宰の新聞「日本」記者を経て、東京朝日新聞に入社し、1920年には取締役編集局長となる。同年の衆議院議員総選挙に旧東京7区から無所属で立候補し当選を果たす。以後通算して当選11回。後に立憲政友会に入党し、鳩山一郎派に所属する。文部政務次官(犬養内閣)、政友会幹事長(1936年 – 1937年)・・・戦前より反軍的傾向を強め、1941年には鳩山とともに、翼賛議員連盟に対抗して「同交会」を結成。翌1942年の翼賛選挙では非推薦で当選した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%AD%A3%E7%B4%94 

(続く)