太田述正コラム#10091(2018.9.25)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その60)>(2019.1.10公開)

 「・・・戦争調査会にお<いて、>野村・・・は、・・・日米・・・交渉が進むなかで、解決の方に近づくのではなく、反対に対日全面禁輸から戦争へ向かったと指摘する。・・・
 野村は・・・アメリカが「時を稼いだという議論が立ち得ると思う」との考えを示す。
 そうだとすれば野村は、最初から成立の余地がなかった不毛な交渉をつづけたことになる。

⇒何のために米側が「時を稼いだ」のかが問題なわけですが、それを野村が言わなかったのか、井上が引用しなかったのか、定かではありません。
 もちろん、軍事力整備のための「時を稼いだ」ということだってありえなくはありませんし、それと矛盾するわけではないのですが、私は、単純に、米側は、第二次世界大戦への参戦忌避ムードが蔓延していたところの、米世論、議会、に対して、日米戦争回避努力をしていることをアピールするために日米会談を続けていた、つまりは、米側も、見せ金としての日米会談をやっていた、という見解です。
 なお、野村が、もっぱら、米側を批判しているように見える点は私には意外でした。
 これについては、野村が、極東裁判、とりわけ、その被告になっていた松岡のことを慮って、あえて発言を控えた可能性がありますが・・。(太田)

 松岡の側近で外務次官として松岡を補佐した大橋忠一<(注87)>(ちゅういち)は、戦後のインタビューのなかで、三国同盟外交を擁護して、つぎのように述べている。

 (注87)1893~1975年。一校・東大法。「岐阜県出身。・・・外務省に入り、・・・満洲国国務院外交部次長、満洲国参議府参事、蒙古聯合自治政府最高顧問を歴任し、1940年から翌年まで外務次官となり、・・・戦後は公職追放となり、追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙に郷里の岐阜1区で無所属で出馬し当選。以来3期務める。1958年の第28回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。落選後は1959年から1961年までカンボジア大使を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E5%BF%A0%E4%B8%80

 「私は松岡氏の三国同盟そのものを当時の状況で結んだことは、とにかくあの猛烈なアメリカの日本に対するプレッシャーからやむを得んと、僕は今でも思ってるんだ。・・・ 我々がこの条約を結んだが、決してドイツの力に頼って城を守るという消極的なものじゃない。
 ドイツを負かさないがためにつっかえ棒をするんだ」。
 大橋をとおして松岡を見ると、松岡はドイツに対する軍事的な評価が低かった。

⇒こんな「ドイツ<に対する低い>・・・軍事的な評価」、と、だからこそ日独伊三国同盟締結が必要である、という、一種捻じれた発想を松岡に吹き込んだのは、熱烈な日独伊三国同盟締結論者とはいえ、ヒットラー心酔者でドイツ礼賛者であったところの、駐独大使の大島浩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B5%A9
であるはずがなく、松岡が自ら任命した、建川美次(注88)駐ソ大使でしょうが、建川の駐ソ大使任命も建川から松岡へのかかる「評価」の注入も、杉山元の差し金であった可能性が大です。

 (注88)たてかわよしつぐ(1880~1945年)。新潟県生まれ。陸士、陸大。「陸軍屈指の実力者である宇垣一成の側近として重用され、1928年(昭和3年)3月に少将に進級、1929年(昭和4年)8月には参謀本部第二部長に就く。1931年(昭和6年)には宇垣を首班とした政権を目指すクーデター計画である三月事件に杉山元、小磯國昭らと参画したが何の処分もなく第一部長に転じた。また、橋本欣五郎ら佐官級の引き起こした同年の十月事件にも関与を疑われた・・・
 <また、1931年9月の満州事変直前に、>陸軍大臣および参謀総長から戦闘勃発阻止を正式に命ぜられた<当時>参謀本部第一部長<であった>・・・建川・・・は、<現地に赴きはしたものの、>作為的に命令の伝達を遅らせ<、関東軍に対して>消極的側面支援を行った・・・
 <そして、>1936年(昭和11年)<、>・・・二・二六事件が勃発<すると、>宇垣閥を敵視する皇道派青年将校らは、朝鮮総督の宇垣をはじめ、直系の南次郎関東軍司令官、小磯、建川の罷免を川島義之陸相に要求した。・・・<建川は、>同年8月、事件後の粛軍人事の一環として、皇道派将官と抱き合わせの形で予備役に編入される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%B7%9D%E7%BE%8E%E6%AC%A1

 (更に言えば、1938年10月の大島の、駐独武官から駐独大使への「格上げ」(上掲)、すら、同年6月まで陸軍大臣で、当時、軍事参議官だった杉山
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 前掲
の差し金であった可能性がかなり高いのではないでしょうか。)
 また、建川は、杉山より陸士1期後輩です(両者のウィキペディア)が、彼が、三月事件、十月事件、満州事変、と完全に杉山と連携した言動を行ってきたことからして、彼は杉山の盟友であったと見ていいでしょう。
 杉山は、その建川を、今度は当時参謀次長であった自分が、自ら事実上引き起こした二・二六事件でもって退役に追いやったことに負い目を感じていて、1940年(昭和15年)10月に参謀総長就任
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
が決まっていたところ、在支だったので恐らくは人づてに松岡・・同年7月22日に外相就任
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3 前掲
・・に頼んで、自分の参謀総長就任と同じ年月に、駐ソ大使として処遇する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%B7%9D%E7%BE%8E%E6%AC%A1 前掲
とともに、建川に、対ソ工作、及び、対松岡工作、を依頼した、というのが私の現在の見方です。(太田)

 日本はドイツを支える「つっかえ棒」になる。
 そうでなくては、アメリカが強く出てきて、日米交渉は日本に不利になる、三国同盟は必要だった。」(200~203)

(続く)