太田述正コラム#10099(2018.9.29)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その63)>(2019.1.14公開)

⇒私に言わせれば、岩畔は、戦争調査会が、米側から証言を聴取する権限も意図もないことを見切っていて、謀略的言辞を吐いているのです。
 (東條同様、岩畔も、近衛が杉山の無能なロボットに過ぎないことは知っていたと思われるところ、岩畔が、近衛を持ち上げた証言をしておくことは、このような不都合な真実を誰かが炙り出す可能性を少しでも減じることにもつながるわけです。)
 なお、杉山元にとっての日米交渉の目的は、前にも記したように、陸軍以外、とりわけ、昭和天皇、に、杉山や東條らが日米戦争回避に向けて最大限の努力をしていることを印象付けることによって、天皇の彼らに対する信頼感を深めるとともに、来るべき対米英開戦を昭和天皇等に止むをえないものとして飲ませるところにあったわけであり、天皇自身の当時の発言記録は、この目論見がうまく運んでいたことを示して余りあるものがあります。(太田)

 「ところが事態は急転する。
 <1941年>6月22日、独ソ戦が始まる。
 独ソ戦をめぐって、矢野志加三<(注90)>(元海軍総隊参謀長、海軍中将)臨時委員が岩畔に質問する。

 (注90)しかぞう(1893~1966年)。陸軍将校の息子。海兵、海大。「太平洋戦争開戦を第4艦隊参謀長として迎え、長官の井上成美を補佐した。教育局長時代に、初級士官不足を補うため兵学校の教育期間を短縮するよう求められた。矢野は既に3年に短縮された期間をこれ以上短縮することに強硬に反対し、同様な考えを持っていた兵学校校長の井上と連絡を取り合い抵抗した。・・・終戦後の1945年(昭和20年)11月1日の定期人事で・・・海軍中将に進級した。戦後の進級であったため、「ポツダム中将」と呼ばれた・・・。後に公職追放となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%87%8E%E5%BF%97%E5%8A%A0%E4%B8%89

 「独ソ戦が長期化するという判断の下に(アメリカの)対日態度が一層強くなって来たわけですか」。
 岩畔が答える。
 「そういうことです」。
 矢野はつづける。
 「そのところがアメリカの外交政策に余程大きな転換になったと思われる。
 その態度の変化は著明であったか」。
 岩畔は同意する。
 「これは私の主観が入るが、非常に著明であったと思う」。

⇒さすがの岩畔が、思わず「私の主観が入るが」とつぶやいてしまったのは、いかに、それに引き続いた彼の答えが、彼のホンネとかけ離れたものであったかを示すものです。
 いや、「思わず」ではなく、他の日米交渉の日本側関係者の誰かから、これに反する証言が出てくる可能性があったので、岩畔は、このような留保を付けたのでしょう。
 繰り返しになりますが、この点についても、米側の証言と突き合わされる恐れだけは、全くなかったわけです。(太田)

 岩畔は約言する。
 「私の考えでは独ソ戦即ち6月22日以前において纏めれば纏められる」。
 要するに日米了解案に基づく戦争回避の可能性は、独ソ戦の開始前ならばあったことになる。

⇒ここでも、「私の考えでは」という留保が付けられていることに注意。(太田)

 他方で松岡外相が4月13日にモスクワで日ソ中立条約に調印している。
 ここに日ソ戦争の可能性が遠のく。
 独ソ戦は長期化する。
 そうなればドイツにとって不利な戦況が訪れる。
 ヨーロッパを席捲するドイツとそのドイツの同盟国日本だからこそ、アメリカは宥和的な姿勢を示して、日米了解案に接近した。
 しかしドイツが劣勢に陥るとなれば、話は別である。
 日米了解案をめぐる交渉でアメリカは要求を強めるようになる。
 <実際、>10月3日にアメリカ側<から>強硬な回答<が出てきた。>・・・
 <しかし、>岩畔は、・・・その後もまだ戦争回避の可能性があったとつづける。
 「それ以後においても北部仏印の撤兵を此方(こっち)が自治的にやってこういう誠意があるということを示したならば纏まったと思う。
 その誠意を示さないばかりでなく南部仏印へ行ったから<米側は>強硬になった。
 これは今でも実行したらよかったのではないかと思う」。」(207~208)

(続く)