太田述正コラム#7292005.5.21

<イラク不穏分子という謎(後日譚)(その3)>

2 謎解きよりも米軍の変身を

 (1)落第生の米軍

謎解きもいいけれど、米軍を何とかする方が先決なのかもしれません。

バグダッド攻略以降、ただちに問題になった米軍の民心収攬面での拙劣さは今に至るまで、余り是正されてはいません。

5月の第二週に大々的に実施された、イラク西部のシリア国境近くの外国系不穏分子掃蕩作戦(Operation Matador)(注5)で米軍はまたもや評判を落としました。

(注5)イラクにおける、六ヶ月前のファルージャ攻防戦以来の米軍の大規模作戦。海兵隊1000名以上で実施され、外国系不穏分子125名以上を殺害した、とされたhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/05/14/AR2005051400295_pf.html。5月15日アクセス)

このスンニ派地域の住民達の中にはこれら不穏分子の跳梁を苦々しく思っていた者も少なくなく、自警団を組織してこれら不穏分子と戦う一方で、数名の部族のリーダー達がイラク国防相及びこの地域を所管している米海兵隊に対して、援助を請うたのです。

その結果は、装甲車両と武装ヘリによる、この地域一帯の盲爆でした。

確かに不穏分子100名以上が殲滅されたけれど、地域一帯の建物もあらかた破壊されてしまい、自警団側や全くの傍観者の中からも多数の死傷者が出ました。当然部族のリーダー達は怒っています。

せっかく、外国系不穏分子と国内系不穏分子や洞ヶ峠を決め込んでいるスンニ派一般住民との間に楔を打ち込むチャンスが向こうの方から訪れたというのに、米軍はこのチャンスを台無しにしてしまったわけです。

(以上、特に断っていない限りhttp://slate.msn.com/id/2119062/(5月19日アクセス)による。)

 (2)優秀な英軍

 この米軍の体たらくと比べると月とすっぽんなのが、同じアングロサクソンの軍隊である英軍です。

 (以下、特に断っていない限りhttp://www.nytimes.com/cfr/international/20050301faessay_v84n2_boot.html?pagewanted=print&position=(4月16日アクセス)による。)

 少し古い話ですが、ビクトリア時代の英軍の話から始めましょう。

英国が世界の四分の一を支配していた1898年、英国は総兵力を331,000人しか擁しておらず、国防費の対GDP比は2.4%に過ぎませんでした。(ちなみに、現在の米国は3.9%。)

 一体その秘密はどこにあったのでしょうか。

 事技術において抜きん出ていた、という点では現在の米軍とおおむね同じです。

しかし当時の英軍には、軍事技術以外に優れている点が多々ありました。

当時の英陸軍に焦点を当てると、優れていた点は次の三つです。

 第一に、植民地における戦闘に最適化していたという点です。

 英陸軍は敵に比べて火力の点では常に勝っていたというわけではありませんが、規律と練度に関しては常に勝っていました。1803年には後年のウェリントン公爵(Arthur Wellesley)が10倍のマスケット銃と5倍の大砲を持ったインド軍を破ったこと(battle of Assaye)(注6)や、1879年には南アで4,500人のズールー族軍の猛攻を砦を守っていた104人の英陸軍が持ちこたえたこと(Defense of Rorke’s Drift)(注7)、は余りにも有名です。

 (注6)英国人兵士とインド原住民兵士(セポイ)からなる13,500人の英陸軍(砲22門)がマラータ同盟の40,000人(砲100門)と戦い、マラータ同盟は6,000人の死傷者を出して敗走したのに対し、勝利した英陸軍側は1,600人の死傷者にとどまった。ウェリントン公爵は、後のナポレオン相手のワーテルローの戦い等ではなく、インドでのこの戦いを生涯で最も会心の戦いであったとした。(http://www.cabarfeidh.com/battle_of_assaye.htm。5月20日アクセス)

 (注7)英国がズールー族の領土を征服しようとして起こした戦争の過程で起こった戦闘であり、一晩中6回にわたって行われたズールー族側の攻撃をことごとくはねかえし、翌朝英陸軍の援軍がかけつけた時点で戦死者は、砦の中の英国人兵士が17人であったのに対し、ズールー族兵士は400人にのぼった(http://militaryhistory.about.com/b/a/059650.htm。5月20日アクセス)

 英陸軍の兵士は全て志願兵であり、長期にわたって(1870年までは21年、それ以降は12年)勤務し、その大部分はずっと海外で勤務したので、彼らは土地に通暁した経験豊富な兵士達でした。

 しかも、彼らは英陸軍の特定の連隊で最初から最後まで勤務したので、強固な団結心と仲間意識を植え付けられていました。

第二に、植民地の原住民からなる部隊を活用したという点です。

例えばインドでは、現地陸軍のうち英国人が就いていたのは士官と下士官の一部だけであり、英国は1931年には3億4,000万人のインド人をわずか6万人の英国人の陸軍要員と警察要員だけでコントロールしていたのです。

第三に、これが最も重要なのですが、英国の植民地行政官・諜報機関員・そして兵士の多くが、余暇の時間を言語学者・考古学者・植物学者等として過ごした、という点です(注8)。

 (注8)もとより、英陸軍にも弱点があった。兵士はあらかた文盲であり、士官は専門教育よりポロの方に関心があった。また、当時世界最強だったドイツ陸軍と比べると、戦理面においても軍事技術面においても遅れていた。そのため、(例えば1838?42年の第一次アフガン戦争のように)敗北を喫したり、(例えば1853?56年のクリミア戦争や1880?81年と1889年?1902年の第一次・第二次ボーア戦争の時のように)ぶざまな姿を晒したりした。しかし、小さい戦争で英陸軍ほど良く戦った陸軍は他にはない。

(続く)