太田述正コラム#10173(2018.11.5)
<吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』を読む(その3)>(2019.1.26公開)

 「1941年から43年には毎年68万人、44年には80万人、45年には120万人もの陸軍部隊が中国戦線(満州を除く)に釘づけにされ・・・、連合軍と戦う日本軍の背後を脅かし続けたのである。・・・

⇒在支日本軍は、例えば、1944年には、大陸打通作戦を行い(4月~12月)、勝利を収めた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6
わけですから、「釘づけ」という言葉はふさわしくないでしょう。
 また、1941年12月9日以降は、中華民国(蒋介石政権)も連合軍の一員になった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%AE%E5%8F%82%E6%88%A6%E5%9B%BD
ので、「連合軍と戦う日本軍の背後」という表現は意味不明です。(太田)

 日中戦争開始以降、敗戦までに、中国本土(満州を除く)で戦没した日本人の軍人・軍属、民間人の総数は46万5700人である・・・。
 満州とは異なり、中国本土からの民間人の引き揚げは比較的順調だったので、46万5700人のほとんどは軍人・軍属だとみて間違いない。
 日露戦争における日本陸海軍の戦史者総数が8万8133人だから、その約5倍もの日本軍兵士が中国本土で戦死していることになる。
 なお、日中戦争に先立つ満州事変における日本軍関係者の戦死者数は、靖国神社への合祀者数で見る限り、1万7174人である・・・。
 日本政府によれば、1941年12月に始まるアジア・太平洋戦争の日本人戦没者数は、日中戦争も含めて、軍人・軍属が約230万人、外地の一般邦人が約30万人、空襲などによる日本国内の戦災死没者が約50万人、合計約310万人である。・・・
 ただし、この数字には朝鮮人と台湾人の軍人・軍属の戦没者数=5万人が含まれている。・・・
 ・・・米軍の戦史者数は9万2000人から10万人、ソ連軍の戦史者数は、張鼓峰事件、ノモンハン事件、対日参戦以降の戦史者数が合計で2万2694人、英軍が2万9968人、オランダ軍が民間人も含めて2万7600人である。
 ・・・中国・・・<では、>・・・ある推定<(注3)>によれば、中国軍と中国民衆の死者が1000万人以上、朝鮮の死者が約20万人、フィリピンが約111万人、台湾が約3万人、マレーシア・シンガポールが約10万人、その他、ベトナム、インドネシアなどもあわせて総計で1900万人以上になる。・・・

 (注3)推計根拠まで示されてはいない。特に、「朝鮮の死者」については、まともなデータをネット上で見つけることができず、米軍による空襲の被害は殆どなかったよう
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1384977933
で、ソ連軍による空襲等の被害があった可能性はあるが、よく分からなかった。

⇒「ある推定」が、やや多すぎる感があるも一定程度信頼に値するという前提でですが、(私見では)杉山元(1880~1945年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
を首謀者として起きた満州事変・日中戦争・大東亜戦争より80年ほど前に起き、同じくらいの期間続いた、洪秀全(1814~64年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E7%A7%80%E5%85%A8
を首謀者として起きた太平天国の乱(1851年1月~1864年8月)・・欧米勢力の到来がその背景にあった・・だけで死者総数が2,000万人以上とされており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1
総人口を勘案すれば・・支那本土以外も計算に入れればなおさらですが、・・アジア人たる軍人・軍属の死者総数を計算に入れても、太平天国の乱よりも死者数は少なく、しかも、全く非生産的な戦争であった太平天国の乱とは違って、大東亜戦争は、支那を含めたアジア全体の解放、及び、欧米勢力同士を対峙させる・・米国に対ソ(露)抑止をやらせる・・ことによるところの欧米による爾後のアジア侵略そのものの抑止、を実現した、極めつきに生産的な戦争であったわけですから、この死者数は、確かに巨大ではあったけれど受忍するに足るコストであった、とも言えるのではないでしょうか。(太田)

 1944年以降の軍人・軍属、一般民間人の戦没者数は281万人であり、全戦没者のなかで1944年以降の戦没者が占める割合は実に91%に達する。
 日本政府、軍部、そして昭和天皇を中心にした宮中グループの戦争終結決意が遅れたため、このような悲劇がもたらされたのである。」(22~26)

⇒1944年に、決定的に重要な2作戦である、インパール作戦と大陸打通作戦が行われたというのに、という話はここではしません。
 で、ここで示された数字は貴重ですが、満州事変・日中戦争・大東亜戦争におけるアジア人死者全体の中で日本人だけを取り出して論じるのはいかがなものか、と思います。
 (そもそも、杉山らは人間主義者達なんですからね。)
 改めて計算する必要があるけれど、日本人以外の死者の過半は1944年までに生じていたとしても私は驚きません。
 既にそれだけの犠牲を(日本人と共に)彼らに強いた以上、日本が完全に戦争諸目的を達成するまで戦争を完遂しなければ彼らに対して申し開きができない、と杉山らは考えていたはずだ、と私は見ているので・・。
 しかも、ここが重要なのですが、この戦争が、一貫して、ほぼ杉山らの想定した通りに進行していた、と思われるのですからね。(太田)

(続く)