太田述正コラム#10336(2019.1.26)
<皆さんとディスカッション(続x3964)/明治維新150年を文明論的観点から考える(続)>

<太田>(ツイッターより)

 昨年はマルクス生誕200周年だったが、中国共産党青年団制作のマルクスのアニメ映画が28日にネット配信開始の予定。
 予告編から察するに、階級闘争論等はネグった、習ちゃんの考えに沿ったものになりそうだと。
https://edition.cnn.com/2019/01/25/asia/china-marx-anime-intl/index.html
 きっと、人間主義者マルクスが描かれるに違いない。
 見てみたいねえ。

<COe0PMh6>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

 日本で人付き合いが苦手だといじめられるんだけどな。
 自分は新卒で入った会社で、ランチタイムに話さないからって理由でいじめが始まった。
 人間主義社会は自由なんて話があったが、人と話さない自由は少なくとも無いな。

⇒取り調べを受けてる時には、少なくとも先進国なら黙秘権が認められているけど、どんな社会でも、話しかけられて返答しない「自由」なんてないで。(太田)

 あと、脳の構造的に人間主義的な行動を取れない人もいるんじゃないか?
 人間主義的行動をするためには、相手の気持ちを理解し、共感する必要があるが、理解できない、あるいはできても共感できない人もいる。

⇒そりゃアタマのビョーキだよ。(太田)

 そういう人には、日本は地獄だよ。
 頭が良くてもこういうことができないと、ゴミ以下に扱われる。人権もクソもない。
 こういう人は個人主義的な社会に行ったほうが輝けるんじゃないか?

⇒アタマのビョーキのヒトは芸術家になったら輝けるんじゃないか、というのと同工異曲の、「成功」確立の極端な低さを無視した、愚論だな。(太田)

<JbcD0/3Q>(同上)

≫人は人間主義的言動を1回でも行えば人間主義者になることができる……キミの場合でも、ボランティアなんてかしこまらずに、身近なところで、人間主義的言動を行えばそれでいいの。≪(コラム#10334。太田)

 千里の道も一歩から、って事でまずは両親に人間主義的言動で接してみます。
 太田さん、アドバイスありがとうございました。

<juM4XSps>(同上)

 <COe0PMh6から、>発達障害者は非人間主義者なのかって疑問が提起されているように思う。

 「発達障害とは、生まれつき脳機能の発達のかたよりによる障害です。
 その症状は外見から分かりにくく、周囲とのミスマッチから社会生活に困難が発生することがあります。
 発達障害の特性を「自分勝手」「わがまま」「困った子」などと捉えられてしまい、「親の育て方が悪い」「怠けている」と批判されてしまうことも少なくありません。」
https://www.rinsho.jp/faculty_st/blog/?p=596

<US>

≫1回目と違って今回wordにされたことには、確か、意味があったはずであることもあり、そうはせず≪(コラム#10334。太田)

 Macでの作業なので文字化けする恐れがあるのでWORDのまま送らさせていただきました
WORD を持っている方ならご自分のPCでPDF化できると思います
取り急ぎ、MAC上で、WORD から PDF版をとりあえず作りました(内容詳細に確認できていません)
 <URL省略(太田)>

<太田>

 <HHさん、>USさんが、本日のディスカッションを読み、参考のためにご自分がPDF化したものを送って来てくれた(別添<(省略(太田))>)のですが、洞澤さんのとこれとでは、容量に極端な差があります。
 <HH>さんのに問題がないかどうか、念のため、ざっと比較してみていただければ幸いです。

<shiouen>

 八幡市の講演会<出席>も予定してましたが、避けられない所用があり今回は欠席致します。週末の天気予報が懸念されますが・・・!
 関が原・京都方面は積雪が予想されます、交通機関に影響が無きよう願っています。

<太田>

 お気遣い、ありがとうございます。

<鯨馬>(昨日)

 ごぶさたしています。・・・
 <関西オフ会幹事>打診のメールをいただきながら、大変ご迷惑おかけしました。
 昨年7月くらいから、この<本メールの>アドレスを見ていませんでした。大変申し訳ないです。
 太田コラムもその頃から読めていませんでしたが、たまたま今日久しぶりに開けて関西オフ会の話が目に入りました。
 驚くやら喜ぶやら。しかも六甲道とは。何もしていないのではなはだ恐縮ですが、運がよかったです。
 あいにく・・・全面的な参加は難しいのですが、午後から少し参加させていただければと思います。使っているOSが古いせいでオンラインでの申し込みが難しいのですが、なるべく明日中に申し込みます。
 当日お目にかかれるのを楽しみにしています。

<太田>(同上)

 いやー、どうされているのか心配していたのですが、とりあえず安心しました。
 明後日、再会するのを楽しみにしています。

<太田>

 それでは、その他の記事の紹介です。

 無過失円満退職にしちゃ、少ないね。↓

 「ゴーン被告、ルノー退任手当5億円超か・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/world/20190125-OYT1T50043.html?from=ytop_main2

 無意味かつ仏・ルノー側に自傷的な営みを繰り返すマクロン。↓

 「日仏首脳、日産・ルノー協力の進展期待で一致 電話会談・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%97%A5%E4%BB%8F%E9%A6%96%E8%84%B3%E3%80%81%E6%97%A5%E7%94%A3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E5%8D%94%E5%8A%9B%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%B1%95%E6%9C%9F%E5%BE%85%E3%81%A7%E4%B8%80%E8%87%B4-%E9%9B%BB%E8%A9%B1%E4%BC%9A%E8%AB%87/ar-BBSIxH6?li=BBfTvMA&ocid=spartanntp
 「日産会長人事で綱引き 仏政府「ルノーに指名権」・・・」
https://mainichi.jp/articles/20190125/k00/00m/020/415000c

 私なんざ、受験(1967年)の前の年の秋からウチから目と鼻の先の私塾に通ったもんだが、ま、半世紀以上経ってんだから隔世の感があるのは当然か。↓

 「・・・理科III類・・・合格者100名のうち、何と61名が同じ塾出身なのだ(2018年度実績)。その塾の名は「鉄緑会」。・・・東大医学部・法学部の学生や卒業生が集まってつくった。東大医学部の同窓会組織『鉄門倶楽部』と、東大法学部の自治会『緑会』から1文字ずつを取り、塾名とした。・・・」
http://news.livedoor.com/article/detail/15922849/

 日本政府は、とにかく、具体的制裁を。↓

 「日韓対立がレーダー照射、徴用工で泥沼化 「韓国は内戦状態」元駐日公使 ・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%AF%BE%E7%AB%8B%E3%81%8C%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E7%85%A7%E5%B0%84%E3%80%81%E5%BE%B4%E7%94%A8%E5%B7%A5%E3%81%A7%E6%B3%A5%E6%B2%BC%E5%8C%96-%E3%80%8C%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%86%85%E6%88%A6%E7%8A%B6%E6%85%8B%E3%80%8D%E5%85%83%E9%A7%90%E6%97%A5%E5%85%AC%E4%BD%BF/ar-BBSI7xh?li=BBfTvMA&ocid=spartanntp#page=2

 朝鮮日報は、とにかく、もっと、自国について危機意識を!↓

 「コラム「文在寅大統領、日本に激怒するだけででいいのか」への韓国読者コメント・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/01/25/2019012580032.html

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <全くの定番だが、本日、八幡市で話をすることもあり、初めて太田コラムを読んでみようと思った人のために・・。↓>
 「・・・ 中国メディアの捜狐は・・・近年の日本は中国人にとって人気の渡航先になっていると伝え、「日本で見聞を広げた中国人は日本を非常に高く評価するようになる」と論じる記事を掲載した。
 記事は、訪日中国人が日本を高く評価するようになるのは「一体、日本の何が優れているのか」と問いかけつつ、それは日本に秩序があって、日本人の民度が高く、日本社会には「細部への配慮」が至る所で見受けられるためだと主張。それゆえ日本を旅行で訪れ、中国に帰国した中国人たちは「日本と中国の差は圧倒的に大きい」と口にするのだと強調した。
 たとえば、日本では横断歩道に歩行者信号の青を延長するためのボタンがあると伝え、これは速やかに横断歩道を渡れない高齢者にとってメリットがあるだけでなく、歩行者がいないときは自動車の流れをスムーズにできるというメリットもあると指摘。こうした配慮があるからこそ、日本の歩行者は中国のように信号無視をしたり、横断歩道のない場所で道路を横断したりしないのだと指摘した。
 そのほか記事は、日本人は公共の場で誰もが自発的にルールを守ること、中国で見られるゴミのポイ捨てが日本では見られないことなどを挙げ、これらはいずれも日本人の民度が高いことを示すだけでなく、「自分以外の人、社会全体への配慮があるからこそ」であると主張。訪日中国人は日本滞在中にこうした配慮を至る場所で目の当たりにするからこそ、帰国後に「日本と中国の差は圧倒的に大きい」と口にするのであると伝えた。」
http://news.searchina.net/id/1675006?page=1
 <概ね定番だが・・。↓>
 「・・・今日頭条・・・記事は、ある中国人が「日本で個人的に関心を寄せたことのうち、自ら感じた日本の実態」をいくつか紹介している。まず日本は建設技術のレベルが高いと指摘し、高速道路や橋、飛行場などを見ても「ケチをつけるところが見当たらない」と主張した。
 中国では急速な都市開発が進められているが、「おから工事」と呼ばれる手抜き工事がはびこっていて、品質の悪い道路やビルが数多く存在すると言われる。・・・
 他には、今も中国人に人気のある日本製のカメラを購入する際、「中国でも販売されている同じ商品が、日本の専門店では中国国内より高い値段で売られている」ことに驚いた様子。店員に尋ねたところ、「同じ商品でも日本国内の工場で組み立てられているゆえに、より品質が高く値段も高い」という説明を受け<たという。>」
http://news.searchina.net/id/1675027?page=1
 <定番。↓>
 「日本は革新を好む国なのに「なぜ漢字を廃止せず、使用し続けるのか」・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1675026?page=1
 <意外に斬新かも。↓>
 「中国メディアの一点資迅・・・記事は、中国の街の清潔さの状況について、「台湾は香港よりも清潔で、香港は中国大陸よりも清潔だ」と指摘し、つまり中国の清潔さはかなり「程度が低い」と自虐的に紹介。そして、大気汚染問題が深刻化していることを指摘したうえで「中国は街中だけでなく、空気までもが汚れている」と嘆いた。
 続けて、同じアジアの国であるにもかかわらず、日本とシンガポールは非常に清潔な国で、「その清潔さは世界的にも認められている」と強調し、日本とシンガポールはいかにして世界から認められるほどの清潔さを実現させたのかと問いかける一方、「この両国が清潔さを実現させた方法は大きく異なっている」と指摘。
 まず、日本は「都市計画、基本設備、国民の自制心」が街全体の清潔さを実現させた主な理由だと主張した。景観全体にまとまりがあり、自然との調和が見られるだけでなく、中国と比べてゴミ箱が少ないにもかかわらず、ゴミが散乱していないのは日本人に自制心があるからだと主張した。一方、シンガポールについては、政府が清掃員を配備しているほか、「ゴミのポイ捨てに高額な罰金を課す」という方法で清潔さを実現していると指摘した。」
http://news.searchina.net/id/1675009?page=1
 <だよ。↓>
 「日本人の身長は中国人以上・・・もはや「小日本」とは呼べなくなった・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1675013?page=1
 <はいはい。↓>
 「日本なら寿司、韓国ならキムチ、では「わが国を代表する料理は一体何か」・・・中国メディアの快資訊・・・」
http://news.searchina.net/id/1675015?page=1
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 一人題名のない音楽会です。
 補遺集ですが、名曲ばかりですよ。

百万本のバラ(仏語) 歌唱・ギター:Dominique MOISAN
https://www.youtube.com/watch?v=pDpL2_Q5y30
 舞踊:BAND ODESSA MIXED
https://www.youtube.com/watch?v=9s4oSjAC7wg

Typewriter(注a)(1950年) オケ:Brandenburger Symphoniker
https://www.youtube.com/watch?v=nW8dGwa2zRw

(注a)米国のルロイ(リロイ)・アンダーソン(Leroy Anderson。1908~1975年)作曲。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3

トルコ行進曲 ジャズ風 編曲:Fazil Say(注b) ピアノ:近藤由貴
https://www.youtube.com/watch?v=Q1v4rEdQRPw

(注b)ファジル・サイ(ファーズル・サイ。1970年~)はトルコ出身のピアニスト、作曲家。アンカラ国立音楽学院、シューマン音楽院(デュッセルドルフ)、ベルリン国立音楽学院で学ぶ。1994年にニューヨーク・ヤング・コンサート・アーティスト国際オーディションで優勝。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4

Friday Night Fantasy(1985年)(注c) トランペット:数原晋
https://www.youtube.com/watch?v=H1-RrJ1dKmY

(注c)日本テレビ系「金曜ロードショー」のテーマ曲。作曲はピエール・ポルト(Pierre Porte。1944年~)。フランスのピアニスト、指揮者、作曲家、編曲家。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88

Nadzieja 歌唱:Anna German(注d)
https://www.youtube.com/watch?v=oHjbjgaoVPo

(注d)Anna Wiktoria German (1936~1982年) は、ソ連のウズベク共和国生まれでポーランドで活躍。
https://en.wikipedia.org/wiki/Anna_German

武満徹 サントリーリザーブ(注e)(1980年代初?) ←オツだねえ。
https://www.youtube.com/watch?v=pMxlJwxHO7k

(注e)ラジオCM用。(上掲)

武満徹 伊豆の踊子(注f) ←曲もいいが、映画で主演をした、私の最も好きだった俳優内藤洋子の画像!
https://www.youtube.com/watch?v=YY0GRTHdi7Y

(注f)映画『伊豆の踊子』(1967年)テーマ曲。(上掲)

武満徹 波の盆(Worship at the Water)(注g)(1983年) ←チョイ長いけど、騙されたと思って聴いてご覧なさい。
https://www.youtube.com/watch?v=OlMOedlchMc

(注g)「1983年11月15日の21:02 – 22:54に日本テレビ系列(NNS)で放送されたテレビドラマ<の『波の盆』の主題曲として作られた・・・楽曲。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E3%81%AE%E7%9B%86
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    明治維新150年を文明論的観点から考える(続)(八幡市講座レク原稿)※

※スライド省略

[スライド#2]

 私の造語である「人間主義」をちゃんと定義したことがなかったことを反省し、ちょっと前にここに掲げている定義をひねり出したのですが、人間主義とは何ぞやということの一端を分かり易く示してくれているのが、現在話題になっているゴーンの事案です。
 まず、ことの発端は、ゴーンが、日本での経営者・・オーナー経営者は除きます・・一般の水準に比べてかけ離れて高い報酬を求めたことですが、どうして、日本人の経営者は高い報酬を求めないのでしょうか。
 これは、そもそも、日本の企業そのものやその(大部分が人間主義者であるところの)従業員達が、日本の非営利組織同様、金儲けのための手段ではなく、企業は、当該企業が信じるところの、社会的な・・人間主義的なと言い換えてもよろしい・・役割を、できうることならば永続的に、経営者と授業員達が一体となって果たしていくための場である、と考えているからです。
 従業員達よりもかけ離れて高い報酬を経営者がもらうと、この一体性が壊れてしまう、というわけです。
 また、否認の被疑者・被告を勾留し続けたり、被疑者の取り調べに弁護士の同席を認めない、といった日本の刑事司法が、欧米諸国から人権に反すると批判されていますが、人間主義文明の日本では、人間主義者が多数を占めていて、日本以外の国に比べて、著しく犯罪が少ないおかげで、被疑者を「邪魔」が入らない環境で念入りに取り調べるなどという贅沢が許されるからそうしているのです。
 日本以外の国、つまり非人間主義文明の国では犯罪が多すぎて、とてもではないけれど、そんな手間暇をかけておられないことから、欧米諸国においては、被告に対する裁判の段階でもそうなのですが、その前の被疑者に対する取り調べの段階においても、ルールの下での官側と私人側の間での一種のゲームが、場合によっては陪審も交え、乱暴かつ粗雑に進行する、という形をとらざるをえず、とっている、ということなのです。

[スライド#3]

 前回、インド文明のところで説明したように、(「正常」な)人間は、誰しも、本来的には人間主義者である可能性が大であるものの、内外の非人間主義者達からの脅威に抗して、人間主義者が多数を占める社会を維持していくことは、容易ではないわけです。
 ところが、日本列島では・・後で申し述べるように、日本列島と朝鮮半島南部、とするのが正しいのですが・・、防衛メカニズムを備えた人間主義文明が成立するのです。
 そんな、いわば、人類史上の奇跡が起こったのは、そもそも、縄文社会が、狩猟採集を主とする定住社会であって、しかも、それが、(世界で他に例を見ないのではないかと思いますが、)実に1万年超にもわたって続いた、ユニークなものであって、一般に、平和であると考えられているところの、狩猟採集社会の特性を、これまた、一般に戦争が頻発すると考えられている農業社会の特徴とされているところの、定住社会においても、例外的に維持し続けていた、ということが第一の理由です。
 第二の理由は、そんな縄文社会に、水田稲作文化を携えて、紀元前10世紀頃から渡来してきて、日本列島を弥生時代へと移行させたところの、中国の江南地方出身の弥生人が、彼らが農業社会人である以上、余剰作物から集積されるところの富を巡る武力紛争に対処する軍事のプロでもあったはずなのに、そんな縄文社会に住んでいた原住民たる縄文人達の平和性に武力で付け込むことをせず、自分達の水田稲作技術を縄文人達に平和裏に継受させつつ、自然にその支配層へと奉られて行った、と想像されることです。
 もとより、弥生人達相互においては武力紛争を免れることはできなかったと考えられてはいますが、やがて、最終的には比較的平和裏に、弥生人達の間で、祭祀を主、政治・軍事を従とする首長家が成立します。
 その姿を、彷彿とさせるのが、邪馬台国の、女性である卑弥呼が神事を司り、実際の政治・軍事は男性である弟が行う
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD
ところの、権威と権力の分離、及び、統治の重層性、を属性とする政治形態です。
 (卑弥呼は、日本社会の女性優位性もまた、示唆している存在です。)
 これが、いわゆる天皇制の原型である、と私は考えています。
 単純化して申し上げれば、この、縄文性と弥生性、そして天皇制、の三点セットが日本文明の中核的特徴なのです。
 この日本文明は、独特のモード転換的な歴史を、日本列島において展開させていきます。
 それは、平和な時代においては縄文性が表に出ているモードが続くのだけれど、内生的ないし外生的な脅威に直面すると、弥生性が顕在化したモードへと転換し、やがて、脅威が薄れると、再び、縄文性が表に出ているモードへと転換(復帰)する、という循環的な歴史です。
 天皇は、このような日本列島史を貫く、縄文性と弥生性の、すなわち、文と武、ないしは、権威と権力、の二つながらの象徴であり、源泉であり続けてきました。
 それと同時に、天皇は、モード転換の示唆者という役割も担ってきたのです。
 こうした背景の下、中国の秦による統一に触発されたと私が見ているところの、日本列島における統一天皇制国家(ヤマト王権)の成立、によって始まった、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代を、私は、拡大弥生時代と呼んでいます。
 その後、日本は平和な平安時代に入りますが、私見では、これが第一次縄文モードの時代です。
 そして、世の中が乱れる鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代が、私見では、第一次弥生モードの時代です。
 更に、再び訪れた平和な江戸時代が、私見では、第二次縄文モードの時代です。
 もう、想像がつくでしょうが、内乱から始まり、対外戦争が続いたところの、明治時代、大正時代、昭和時代(戦前期)は、私見では、第二次弥生モードの時代です。
 当然、昭和時代(戦後期)、平成時代は、私見では、第三次縄文モードの時代です。
 これは、世界史上、初めて、日本文明が、他文明によって総体継受を試みられるようになった時代でもありました。
 さて、ポスト平成時代を目前にしている現在、日本は、再びモード転換を迫られています。
 しかし、今度は、従来通り弥生モードに転換すべきなのか、モード転換史自体を止揚すべきなのか、悩ましいところです。
 付言します。
 「拡大弥生時代→第一次縄文モード」のモード転換示唆者は嵯峨天皇(786~842年。天皇:809~823年)です。
 彼は、平和な時代が到来したということでしょう、弘仁9年(818年)、死刑を廃止したのです。
 この死刑の廃止は以後保元の乱まで338年間続くことになります。
 「第一次縄文モード→第一次弥生モード」のモード転換示唆者は、死刑の復活によって、いわば平和な時代が終わったことを宣言するとともに、日宋貿易の奨励に努め、開国の時代への復帰を寿いだのが後白河天皇/法皇(1127~92年。天皇:1155~58年:治天の君:1158~1179年、1181~92年)です。
 「第一次弥生モード→第二次縄文モード」のモード転換示唆者は、後陽成天皇(1571~1617年。天皇:1586~1611年)であり、彼は、秀吉による、朝鮮出兵に反対したり秀次殺害に不快感を示したりし、平和志向、豊臣忌避の姿勢を打ち出しています。
 「第二次縄文モード→第二次弥生モード」のモード転換示唆者は、孝明天皇(1831~67年。天皇:1846~67年)です。
 彼は、1846年8月に、幕府に外国からの脅威(異国船)に対して軍事的対策を採ることを求めたのですが、これは、対外問題に関して天皇が勅を幕府に下した最初のケースであり、外国からの脅威に対処すべき時代の到来を告げるものでした。
 「第二次弥生モード→第三次縄文モード」のモード転換示唆者は、昭和天皇(1901~89年。天皇:1926~89年)です。
 彼は、張作霖爆殺事件の時の田中義一首相の煮え切らない姿勢を叱責し、その結果、田中内閣の総辞職、田中の意気消沈死、という結果をもたらしたことで、対外政策の非軍事化を促した形になりました。
 [現在進行中のモード転換]のモード転換示唆者は、今上天皇です。
 陛下の2016年7月の生前退位の意向表明は、まさにそのためになされた、というのが私の考えです。

[スライド#4]

 以上、申し上げてきたことは、皆さんには聞き慣れない話ばかりだったかもしれませんが、私の妄想でないことはもとより、仮説ですらなく、事実である、と私自身は思っています。
 昨年のNHK大河の『西郷どん』を見ておられた方は、二竿の錦の御旗が何度か登場したことを御記憶ではないでしょうか。
 錦の御旗は、源頼朝が奥州合戦で、それぞれ、「伊勢大神宮」、「八幡大菩薩」、という神号の入った二竿の旗を用いたのに始まり、室町時代まで使われ続け、幕末の鳥羽・伏見の戦いで復活し、大いに威力を発揮したことで知られています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E3%81%AE%E5%BE%A1%E6%97%97
 前者の神(豊穣の神)を祭る最高の格式の神社が伊勢神宮であり、現在の祭主は今上天皇第一皇女の黒田清子さんです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE
 また、後者の神(武の神・・スサノオの子孫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E )を祭る最高の格式の神社が大分県宇佐市にある宇佐神宮、と、この八幡市にある石清水八幡宮です。
 宇佐神宮には、今でも勅使が10年に一度派遣されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE
 そして、伊勢神宮とともに、当初は宇佐神宮が、鎌倉時代以降は石清水八幡宮が、二所(の)宗廟(皇室の氏神)の1つとされ、現在に至っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%BB%9F
 ちなみに、石清水八幡宮は、清和源氏の内の河内源氏の(源義家、源頼朝ら)歴代棟梁達や、その係累にあたる足利氏や、その係累を称した徳川氏など、からも氏神として崇敬された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
ところです。
 つまり、主たる豊穣・・平和、ないし縄文性、もしくは人間主義、でもいいと思います・・、と、従たる武・・弥生性でもいいと思います・・、の双方を、最高権威者である天皇が一身に体現していることが、天皇の象徴たる錦の御旗に示されている、というわけです。
 武家の棟梁達が、貴種、すなわち、源氏や平家のような天皇家の子孫でなければならなかったのは、武の源泉が天皇であったからであり、また、彼らの氏神が、天皇家の宗廟(氏神)の一つと同じなければならなかったのもそのためです。

 スライドの右側ですが、一目瞭然だと思うので、そこに登場するところの、それぞれ新しい統治システムを構築した、最高権力者達のプロフィールをご紹介しましょう。

 最初に、摂関政治を始めた藤原道長(966~1028年)です。

 「1016年・・・三条天皇<が>譲位し、<新天皇>が即位した(後一条天皇)<時、>道長は摂政の宣下を受けた。・・・
 政敵であった藤原実資<(さねすけ)>でさえ・・・今の太閤(=道長)の徳は帝王のようで、世の興亡はその思いのままである・・・と評<するに至った>・・・。
 翌・・・1017年・・・道長は摂政と藤原氏長者を嫡男の頼通に譲り、後継体制を固めた。・・・
 <彼は、>弓射に練達し<ていた>。
 <また、>文学を愛好し・・・紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、内裏の作文会に出席するばかりでなく自邸でも作文会や歌合を催したりした。・・・
 <更に、>仏教(特に浄土教)に対して信仰心が厚く、最期は自らが建てた法成寺<(ほうじょうじ)>阿弥陀堂本尊前で大勢の僧侶に囲まれ極楽浄土を祈願する儀式の中で臨終の時を迎えたとされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7

 次に、院政を始めた白河法皇(1053~1129年)です。

 「<小さい頃、>今様(民謡・流行歌)などを好み、よく遊んでいた<という。>
https://senjp.com/go-ten/’>https://senjp.com/go-ten/
 <天皇に即位後の彼>は当初から強い権力を有していたわけではな<く、>・・・親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった・・・
 [<但し、>「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり。」との考えを披瀝し、仏教を保護して統治する伝説上の金輪聖王<(こんりんじょうおう)>(転輪聖王)にならって・・・1076年・・・<天台宗?の>法勝寺<(ほっしょうじ)>を建立し<ている。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8B%9D%E5%AF%BA
 また、<1086年に実子の堀河天皇に譲位した後、>1095年、・・・院庁の警備をするために北面の武士をお<き、これが>北面の武士となった源氏や平氏が力を持つようになる<契機となった>。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisizinbutu/sirakawatennou.htm ]
 <そして、>1096年・・・には鍾愛する皇女<たる>内親王の病没を機に出家し、法名を融観として法皇となっ<ている。>・・・
 <もともとは、天皇親政論者であったところの、彼が、いわゆる、院政を開始>したのは、[1099年の関白の<藤原>師通の急逝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E9%80%9A ]
による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御<(1107年)>、その皇子で白河法皇の孫である・・・鳥羽天皇の即位<礼(1108年)>が契機であったと考えられている。・・・
 <こうして>政治的権限を掌握した白河法皇は、受領<(ずりょう)>階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。特に叙位・除目<(じもく)>に大きく介入し、人事権を掌握する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 

 今度は、幕府を開いた源頼朝(1147~99年)です。

 「生涯において前線で戦うことは少なかったが、石橋山の戦いでは鎧武者を一撃で倒すなど叔父源為朝譲りの強弓を披露している。
 慈円と親交があって和歌を詠み、・・・新古今和歌集<への>入撰<歌もあ>る。・・・
 <また、>法華経の写経や埋経<(マイキョウ)>、暗誦(あんじゅ)などを行い、「法華八幡の持者」と称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D

 その次は、(有力説によれば)執権制度の創設者である北条泰時です。

 「泰時は・・・頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出した。・・・「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとり、次位のものは後に「連署」と呼ばれるようになる。泰時は続いて・・・有力御家人代表と・・・幕府事務官僚などからなる合計11人の評定衆を選んで政所に出仕させ、これに執権2人を加えた13人の「評定」会議を新設して幕府の最高機関とし、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。・・・
 <また、>3代将軍源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、8歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせた。頼経は・・・1226年・・・正式に征夷大将軍となる(実朝暗殺以降6年余、幕府は征夷大将軍不在であった)。・・・
 <そして>、これによって鎌倉殿=征夷大将軍は実権を奪われて名目上の存在になった。もっとも、・・・評定衆の会議で決められた事は常に・・・征夷大将軍に報告し、・・・幕府の最高権威はあくまでも・・・征夷大将軍であることを強調し続け、泰時本人が主従関係の模範になろうとした。・・・
 沙石集は泰時を「まことの賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとし、万人の父母のような人である」と評し<ている。>・・・
 貞永元年(1232年)・・・全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。はじめはただ「式条」や「式目」と呼ばれ、後に裁判の基準としての意味で「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」と呼ばれるようになる。・・・
 <彼には、>寛喜の飢饉の際、被害の激しかった地域の百姓に関しては税を免除したり、米を支給して多くの民衆を救ったという逸話がある。この際には民衆を慮って質素を尊び、畳、衣装、烏帽子などの新調を避け、夜は燈火を用いず、酒宴や遊覧を取りやめるなど贅沢を禁止した。
 晩年に行った道路工事の際には自ら馬に乗って土石を運んだ事もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82

 最後は、得宗制の事実上の創設者である北条時頼ですが、後程、日本の最高権威者/最高権力者の3事例の1つとして、ご説明するので、そちらに譲ります。

[スライド#5]

 政治における統治の重層化は、江戸時代に至って、社会の末端近くまで及んで行きます。
 例えば、江戸の場合、「警察業務を執行する廻り方同心は南北<両町奉行所>合わせて30人にも満たず、・・・・同心は私的に岡っ引を雇って<おり、この>岡っ引が約500人、<その配下の>下っ引を含め<れば>3000人ぐらいいた<ものの、彼らは、>・・・奉行所の正規の構成員ではなく、俸給も任命もな<く>、同心から手札(小遣い)を得ていた<けれど>・・・、岡っ引・・・専業<で>・・・は無く、<別に>家業を持っ<てい>」ましたし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E3%81%A3%E5%BC%95
地方では、幕領では、「名主<(なぬし)>は一村の長で村政を統轄,組頭はその補佐役,百姓代は小前百姓の代表として名主組頭層の村政運営を監視し<、>名主は世襲,大百姓の回り持ち,入札<(いれふだ)> (選挙) などさまざまで、給米を受けたり年貢減額の特典を与えられて<おり>。組頭も組頭給などを受け,選出は協議,入札などによ<り、>百姓代は無給が原則<だったが、彼らが>・・・代官や郡奉行の指揮を受け,村落の管理運営にあたった<ところ、>年貢の収納が最大の仕事<だった>」という具合です。
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E5%BD%B9%E4%BA%BA-140901
 (江戸時代、地方レベルでは、入札なる選挙制・・民主主義!・・が広範に行われていた、ということも覚えておいてください。)
 政治における統治が重層化すれば、それを真似る形で経済等の分野でも統治(ガバナンス)が重層化して行くことになります。
 例えば、商家における、「旦那-番頭-手代-丁稚(小僧)/旦那–暖簾分け分家旦那(元番頭)」制がそうです。
 (ちなみに、番頭も手代も、政治における統治職位名の転用です。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%AA%E9%A0%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E4%BB%A3
 こうして、江戸時代に、私の言うところの、プロト日本型政治経済体制が成立するのです。
 このプロト日本型政治経済体制が、同じく、私が言うところの、日本型政治経済体制として復活するのが、昭和初期から先の大戦にかけての頃です。
 このスライドは、日本型政治経済体制中の経済体制部分について、この場で3年前に説明した時のものを転用して作成したものですが、ここから、「政治」についても類推していただけると思います。
 いずれにせよ、日本型政治経済体制の最大の特徴が、統治の重層性・・権威と権力の分散・分有性と言い換えてもよい・・にある、ということを見て取っていただければ幸いです。
 なお、統治の重層化傾向があるということは、人間主義というものが、本来的に、民主主義的かつ無政府主義的であることを示唆している、と言えそうですね。

[スライド#6]

 日本の仁政の伝統を体現している、最高権力者や最高権威者として、3名挙げておきました。
 仁徳天皇時代の天皇は最高権威者でありかつ最高権力者であったわけですが、「人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと言う古事記と日本書紀(記紀)に出てくる逸話(民のかまど)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
で有名です。
 仁徳天皇の父親ということになっている応神天皇を確実に実在した最初の天皇とする有力説があるところ、この応神天皇は、母親とされる神功皇后と共に、(朝鮮半島攻略の事績があるとされ、)八幡神に付会され、皇祖神や武神・・私見では弥生性の神・・として各地の八幡宮に祀られており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
確実に実在を確かめられる二番目の天皇ということになる仁徳天皇に、仁政の神・・それは、私見では縄文性の神であり、即、人間主義の神でもある・・、という属性を記紀の編纂者達が帯びさせた、ということではないでしょうか。
 とにかく、国民のことを第一に考えることを、最高権力者や最高権威者が当然視する文化を持つ文明は、古今東西、アングロサクソン文明と日本文明だけなのです。
 また、鎌倉幕府の13世紀の執権であった北條時頼は、日本における統治の重層性を一層進めたところの、得宗制の事実上の創始者でもある、マキャベリスト的な辣腕の権力者でしたが、天皇が、最高権威者であり続けつつ、最高権力者に権力を委任するようになってからの、日本の仁政の伝統の代表的な体現者でもあって、彼は、「庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護し<た>」とされています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%A0%BC
 彼を取り上げた謡曲に、その廻国伝説を元にした『鉢木(はちのき)』がありますが、君主の廻国伝説的なものは世界に少なからず存在こそすれ、信頼性の高い史料によって裏付けられていて・・史書『増鏡』に、「故時頼朝臣は、頭おろしてのち、忍ひて諸国を修行しありきけり。それも、国々のありさま、人の愁など、委しくあなぐり見聞かむの謀にてありける。」とある・・、事実に立脚していると思われるものは、私が調べた限り、日本のこの一例だけです。
 (そもそも、最高権力者が、身分を隠して、表見的には一人で、安全に「廻国」できるような社会など、いつの時代であれ、世界中で日本以外には存在しません。)
 戦国時代末期に生きた後奈良天皇は、私が、第一次弥生モードから第二次縄文モードへの転換を示唆した諸天皇のうちの一人でもあると見ている人物ですが、最高権威者だけの存在になってからも、天皇がいかに国民ファーストの気持ち・・最高権力者に仁政の伝統に則った統治を促す気持ち・・を持ち続けていたかが、その言動からよく分かろうというものです。

[スライド#7]

 ヤマト王権による日本列島統一を促したと私が見ているところの、中国における統一王朝、秦、の成立(紀元前221年)の背景にあった思想は、一体何であったのでしょうか。
 私は、秋田大学の吉永慎二郎教授の説に従い、それは、当時、隆盛を極めていたところの、墨家(ぼくか)の思想であった、と考えています。
 墨家の思想を一言で現せば、君主は、彼がその一義的解釈権を独占的に保有するところの兼愛・・自他・親疎の区別なく、平等に人を愛すること
https://kotobank.jp/word/%E5%85%BC%E6%84%9B-491364
・・なる道徳を家臣及び民衆に教え守らせること、と、平和の維持と生活必需品の生産振興を行うこと、に努めなければならないのであって、その努力が不十分であれば、放伐されてしかるべきである(吉永説)、という、専制的かつ唯物的な、マルクス・レーニン主義の古代版といった趣のものでした。
 ちなみに、秦は、中国を統一する1世紀以上も前から、法家(ほうか)の思想による統治を標榜してきていましたが、君主だけならいざしらず、君主の係累までもが、法の外(上)に置かれており、法家の思想はタテマエにとどまり、徹底していませんでした。
 漢以降の中国の諸王朝は、儒家(じゅか)の思想による統治を標榜することになりますが、このタテマエとしての法家の思想も、ホンネとしての墨家の思想とともに維持され続けます。
 では、諸王朝は、儒家の思想は、いかなる形で維持することになったのでしょうか?
 一部は、墨家の思想と習合し、それを墨家の思想改とでも称すべきものへと改変する形で、墨家の思想改の残りの部分とともに、諸王朝のホンネとして維持されることになります。
 すなわち、儒家の孟子は、墨家の思想における兼愛は(親に対する)孝や(主君に対する)忠(下出)を蔑ろにするものであると批判した
https://kotobank.jp/word/%E5%85%BC%E6%84%9B%E8%AA%AC-60245
のですが、こういった批判もあってか、中国では、臣下達を含め、唯物的目的を追求しつつ、(すぐ後で触れるように)孝を忠よりも優先すること・・私はこれを、利己主義的な阿Q的人物達による一族郎党命主義と形容しています・・が、一貫して当然視され続けることになります。
 いずれにせよ、儒家の思想の核心部分が、中国の諸王朝のホンネになることはありませんでした。
 儒家は、親の子に対する無償の愛が仁愛(仁)であるとし、子に対して、その反射として、親への崇敬の念である孝を奨励するとともに、臣下等に関しては、子の親に対する孝のアナロジーで、主君や国家に対しては忠でなければならない、とし、そのどちらも重視すべきであるとしました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0
 しかし、実際には、漢人の間では、孝が忠よりも重要だと考えられており、それが変わることはなかったのです。
 だからこそ、中国では、王朝交代・・いわゆる易姓革命・・が、(その大部分が禅譲等ではなく、臣下等による放伐によって)繰り返し行われたのです。
 王朝交代は、元や清等の場合は、周辺少数民族による漢人王朝の征服によって行われましたが、これは、漢人諸王朝のホンネたる墨家の思想が、平和志向であったこともあり、軍事を蔑ろにする傾向があったからです。
 このような、中国の王朝交代史に終止符を打ったのが、19世紀後半以降における、欧米文明を継受したところの、日本の興隆の衝撃でした。
 この衝撃は、中国において、清末・中華民国時代の第一フェーズでは日本を通じた欧米諸文化継受努力をもたらし、中華人民共和国成立後の第二フェーズでは日本文明総体継受努力をもたらし、現在に至っているのですが、この話は、次回、掘り下げて行います。

[スライド#8]

 諸子百家を代表する、孔子、墨子、韓非、の3名の中に、人間主義を唱えた人がいなかった、ということは重要です。
 孔子は仁を唱えつつも、仁について説明をしていませんが、「孔子の道を継承し発展させることを自任」していた孟子(BC372?~289?年)
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%9F%E5%AD%90-142096
が、墨子の兼愛説を無君無父(君を無(な)みし父を無みす)の思想として激しく攻撃
https://kotobank.jp/word/%E5%85%BC%E6%84%9B%E8%AA%AC-60245
したことが端的に示しているように、仁は人間主義の普遍性とは相いれない代物です。
 では、墨子の兼愛はどうか?
 兼愛は、一見すると普遍的ですが、その何たるかは君主が決めるというのですから、全ての人間が共通に同じもの(人間主義性)を潜在的には具有しているとする人間主義とは似て非なるものです。
 法家に至っては、こういった道徳的ないし倫理的なことには無関心であり、もっぱら法律でもって人々の言動を律しようとするのですから、人間主義どころか、仁や兼愛にも出番はありません。
 それでは、中国は人間主義とは無縁の世界だったのでしょうか。
 (本来的には人間主義者回帰と人間主義実践を旨とするところの、)仏教が中国にも伝播したことは確かですが、それは、基本的に人間主義者回帰の方法論を欠いたところの、北伝仏教でしたし、それも、随・唐を最盛期として衰退に向かってしまいます。
 そんな、中国に例外的に現れたところの、人間主義思想家が、儒家の程明道(1032~85年)と、その、時代を隔てた弟子筋にあたる、同じく儒家の王陽明(1472~1529年)、の二人です。
 程明道は、朱子学と陽明学共通の源流の一人ですが、仏教等の影響を受け、仁を「万物一体」、万物の痛みを自分の痛みと感じること・・まさに人間主義です!・・、と再定義し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E3%82%B3%E3%82%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81
王陽明もこの考え方を踏襲したのです。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/220436/1/soc.sys_20_a.pdf 
 この王陽明の陽明学が、非人間主義の中国では廃れてしまったけれど、人間主義の日本では、幕末の志士達等の間で大いに流行り、彼らを鼓吹した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E9%99%BD%E6%98%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6
根本的な所以はそこにある、と私は考えています。

 このような非人間主義の中国文明において、仁政の伝統がないことを、中国史における最高の名君とされるところの、唐の太宗の事績でもって検証してみましょう。
 仁政の必要条件は、国内外の平和が確保されることですが、この条件は太宗はクリアしています。
 それどころか、太宗は、遊牧民の勢力圏内に攻め入って武威を輝かし、彼らの君主としての称号まで与えられたというのですが、これは、彼が、漢人ではなかったからこそです。
 すなわち、「唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ・・・鮮卑系<であるだけでなく、>・・・唐王朝の高祖、太宗、高宗三代の母はすべて<非漢人>」なのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
 ちなみに、鮮卑は、「近年では・・・モンゴル系であるという説が有力になって」います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91
 では、太宗の「貞観の治」は仁政の十分条件を満たしていた、と言えるのでしょうか?
 貞観の治の「時代を示す言葉として、『資治通鑑』に「・・・天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い)・・・との評」があり、この時代の政治は『貞観政要』(太宗と大臣の対話集)として文書にまとめられ、長く政治のテキストとして用いられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E3%81%AE%E6%B2%BB
のですが、この『貞観政要』の創業と守成の困難性を比較した箇所に、守成について、ある重臣が、「人民が平穏な生活を欲していても、労働の義務を課せられ<ると>、休むことができなくなります。<こうして、>人民が弱り衰えても、国の無駄な仕事のために安息はありません。国の衰退は常にこのようなことに起因します。」と述べた、と書かれています。
 これは、単に、労役・・税と言い換えてもいいでしょう・・は重すぎると国を衰退させてしまう、と言っているだけのことであり、太宗達にとって、人民の福利など国政の手段に過ぎず、国政の目的とはされていないことが明らかです。
 従って、「貞観の治」は仁政とは言えないのです。
 更に言えば、太宗は、(父親である高祖の治世中に、兄である皇太子と弟を殺した上、高祖に譲位させて皇帝に就任したのですが、このことには目をつぶるとしても、)晩年に立太子問題を発生させています。
 すなわち、「当初立太子されたのは長子の李承乾であったが、太宗は弟の魏王李泰を偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を企てたとして廃された。魏王も朋党を組んでいて不適格だとして、皇后の兄である長孫無忌の意向により、最も凡庸な李治(後の高宗)を皇太子としたが、この立太子問題が後の武則天の台頭<による唐朝の一時的簒奪>の要因となることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%94%90)
というのですから、彼は、貞観の治的な統治の承継に失敗しただけではなく、王朝存続の危機の原因を作ったわけであり、名君に値するかどうかすら、私は疑問に思っています。

[スライド#9]

 覊縻とは、友好的な首長を選び、当該地方の地方長官に任じ、彼らがもともと有していた統治権を本国の政治構造における官吏であるという名目で行使させたものであって、冊封と直接支配(内地化)の中間形態ですが、このような支配地は羈縻州と呼ばれた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%88%E7%B8%BB%E6%94%BF%E7%AD%96
ところ、清は、李氏朝鮮を、羈縻州ならぬ、私の作った言葉ですが、羈縻国にしました。
 つまり、実態は羈縻州だが、国の体裁をとらせたのです。
 古今東西、これ以外の例はなさそうですが、日本(薩摩藩)にとっての琉球・・明や清の冊封国でもあった・・、が、強いて言えば似ています。
 以下、詳しくは、私のコラム#9510中の「朝鮮論II–朝鮮半島史の分水嶺」を参照していただくこととして、ごく簡単に説明しましょう。
 紀元前1000年頃以降、朝鮮半島南部と日本とは、ほぼ同一文明圏を呈していた、というのが私の唱えている説です。
 そのことを直感的に教えてくれるのが、ずっと時代は下りますが、7世紀前半に作られたと思われる、日本製か朝鮮半島製か決着がついていない(!)ところの、広隆寺の弥勒菩薩像・・国宝彫刻第一号・・です。
 新羅は7世紀後半に初めて朝鮮半島を統一した王朝ですが、統一する前の時代の話として、第一に、その王室が、三つの王統から成っていて王統間で王位が禅譲されたという牧歌的な伝説的「史実」を有する点で、放伐史的「史実」しか持たない支那史とは決定的に異なり、同じく牧歌的な、但し、「万世一系」の日本史を思い起こさせること、第二に、この三つの王室の祖のうち、一人は日本人、もう一人も日本人ゆかりの人物ないし日本人、という伝説があること、からだけでも新羅の日本性は濃厚である、と思いませんか。
 ところが、唐の内戦である「安史の乱」(755~763年)の最中の757年12月に、新羅の景徳王(?~765年。在位:742~765年)は、新羅の全国各地の地名を、一斉に、固有語から中国風の漢字2文字へと変更してしまうのです。
 そして、そのことが端的に示しているように、新羅は、日本文明を捨て、中国文明継受へと大きく舵を切ってしまうのです。
 その結果成立するのが、これも私の命名である、朝鮮亜文明です。
 このスライドの右側については、詳しくは、私のコラム#10238中の「朝鮮論III–朝鮮亜文明」を参照していただきたいのですが、若干の注釈を加えておきます。
 「仁政の消滅」はお分かりになると思いますが、これとコインの表裏の関係にあるのが、朝鮮の支配層による、政治システムの中下層に位置するところの、苛斂誅求の対象たる、概ね労働行為に従事している者達、への侮蔑意識であり、国教になった儒教の教えもあり、「労働の蔑視」がもたらされるわけです。
 また、「民衆の過収奪」ですが、唯一の接壌国が、李氏朝鮮になってからは、宗主国たる明ないし清であったことから、民衆が外敵側に逃散したり寝返ったりする事態を想定する必要がなかったので、支配層は、民衆から、その生存限界まで収奪を行うことができた、ということです。
 むしろ、そうすることで、国内における、王朝転覆につながるような、大きな民衆叛乱を、(そのための余剰を奪うことで)防止できた、というわけです。
 なお、「土俗信仰の弱体化」ですが、それがなぜ問題かと言うと、神道と似た人間主義教であったと想像される土俗信仰が弱体化したことで、人間主義の衰退に一層拍車がかかったと思われるからです。
 また、「想像力の貧困」ですが、前述したような唯物的な中国において、フィクション文学の発展が妨げられたところ、朝鮮では、支配層が、一貫して、自国語ではなく漢文(中国語)を使い続けたこともあって、その発展は一層抑圧されることとなり、それを象徴するのが悲劇フィクションの不在であるところ、これが「想像力の貧困」を招いたわけです。
 「朝鮮民族の超優秀性? 」の「?」は、断定を避けただけで、その可能性は高いと思います。
 で、そんなに優秀な民族が、まことにもって恥ずかしいような歴史を歩んでくる羽目になったことが、かの「恨の文化」をもたらした、ということにあいなるのです。
 ちなみに、読んで字の如しである「軍事の蔑視」と「普遍的倫理の否定」が複合的に露見したのが、レーダー照射問題です。
 韓国の艦艇による自衛隊機に対する火器管制レーダーの照射や自衛隊機からの無線の呼びかけへの無返答という韓国軍の練度の低さ、更には、本件を巡る日韓両国政府のやり取りの過程で日本政府による同レーダー周波数(音声)の公表を招いたことによる韓国海軍の攻撃能力の「消滅」の甘受、は、韓国において「軍事」がいかに「蔑視」されているかを、また、本件で韓国政府が嘘の上に嘘を重ねたのみならず日本政府批判すら繰り返したことは韓国民一般が正直という「普遍的倫理」といかに無縁であるかを、それぞれ完膚なきまでに示したところです。

[スライド#10]

 仁政を行ったかどうかはともかくとして、名君として、日本では3人、中国では1人、あげているのに対し、朝鮮では2人もあげていますが、名君など皆無で苦慮した挙句、無理やり相対的にマシな方の国王を2人探し出した、というのが本当のところです。
 2人とも、韓流歴史ドラマでは、さぞかし美化されて描かれているのでしょうが・・。
 1人目の世宗(セジョン=せそう)の唯一と言ってよい業績はハングルの創製ですが、ハングルを普及しようとしなかったどころか、ハングルでの公文書作成すら命じなかったのですから、何をかいわんやです。
 (李氏朝鮮末期に、ハングルでの公文書作成を実現させたのは日本人でしたし、ハングルの普及は、日本統治時代の学校教育を通じて初めてなされたのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB
http://kaitaku.npo-index.net/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2/ )
 2人目の英祖(ヨンジョ=えいそ)については、日本から入ったサツマイモを飢饉対策として普及させたという、仁政的な良いことを一つだけはやっていますが、さしたる理由もないのに、世子であった息子を残酷な方法で殺すという病理的な事績があり、およそ、名君どころか、人として失格でしょう。
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太田述正コラム#10337(2019.1.26)
<2018年度八幡市セミナー2回目次第等/皆さんへの問いかけ(コラム#10251)について(その1)>

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