太田述正コラム#10193(2018.11.15)
<木村光彦『日本統治下の朝鮮』を読む(その15)>(2019.2.4公開)

 「朝鮮内および内地の鉱工業部門への農村青壮年労働力流出は、農業労働の組織化・共同化、女子労働動員などによって補填し得る量をはるかに超えていた。
 総督府の総力を挙げた取り組みにもかかわらず、肥料、資材の不足も深刻化した。
 さらに、過大な供出を強いた結果、農民の生産意欲低下が避けられなかった。
 その結果、1940年代、さまざまな施策にもかかわらず、農業生産は大きく低下した。
 1940~44年、食糧生産総量は722万トンから680万トンに、一人当たりでは0.306トンから0.263トンに減少した・・・。
 1937年、内地に6年遅れて、朝鮮に「重要産業統制法」<(注18)(コラム#10042)>が施行される。

 (注18)「1931年(昭和6年)の浜口内閣の時期に、重要な産業の公正な利益を保護し国民経済の健全な発達を図る目的で、統制協定(カルテル)を管理する統制委員会を設置した日本の法律である。正式名称は「重要産業ノ統制ニ関スル法律」(昭和6年3月31日法律第40号)。施行は、1931年(昭和6年)8月11日。
 この法により全体主義的な意味での統制という言葉が法律で初めて使用され、後にこの言葉が国家総動員法及び重要産業団体令の中で統制会社、統制団体などとして使用されるきっかけとなった。・・・
 当初、5年間の時限立法・・・であり、1936年の改正で10年に延長され、1941年(昭和16年)8月11日に失効した。
 同業者間の生産または販売の統制協定の締結を保護助成し、この法律をモデルとして、1934年の石油業法を皮切りに、重工業分野に業法が制定された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E8%A6%81%E7%94%A3%E6%A5%AD%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B3%95

⇒重要産業統制法が制定(3月)施行(8月)された前後に三月事件と満州事変(9月)が起こり、どちらも、当時、陸軍次官の杉山元が首謀者だったと私は指摘しているところ(コラム#省略)ですが、後述するところの、その後の杉山の宮崎正義との関りからしても、杉山は日本経済の高度化に高い関心を持っていたと考えられるところ、総動員体制の構築に資するところの、この重要産業統制法を推進させた首謀者も彼であった可能性が大です。(太田)

 これによって朝鮮商工業にたいする統制が本格化した。
 以後、・・・市場経済から統制経済への転換が進展する。・・・
 1943年、帝国議会で「軍需会社法」<(注19)(コラム#8551)>が成立した。

 (注19)「軍需省設立に伴い 1943年 10月に公布された法律。同年 12月に施行された・・・
 <この法律は、>軍需会社の政府による指定(1944年末までに計683社),政府の・・・定款変更や懲戒の・・・命令権,政府の損失補償,利益保証などを規定した。・・・
 この法律により軍需会社として指定された会社には,商法の役員とは別に政府に対して,会社全体について責任を負う生産責任者と,現場について責任を負う生産担当者をおくことが義務づけられ,さらに会社の従業員を両者の指揮下においた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BB%8D%E9%9C%80%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E6%B3%95-58361
 
 同法は、会社が株主の利益ではなく公共の利益に資すべきことを強調し、重要民間会社にたいする国家の強力な指導・監督権を規定した。・・・
 朝鮮で<も>・・・44年には、内地に1年遅れて、「軍需会社法」が施行される。・・・
 軍需会社は形式的には、利潤を追求する民有民営の事業体であったが、実質的には国営企業にきわめて近い存在と化した。・・・
 朝鮮では実際に、ある軍需会社では生産責任者が解任されている。・・・
 朝鮮の経済統制・国家管理は・・・農業およびこれに関連する分野では、内地以上に進展した。
 地主の内の「団地経営」や精米工場の国有化は、内地ではみられなかった政策である(・・・内地ではもともと、籾摺・精米が工場工業化されていない)。・・・」(122~125、165)

⇒日本型政治経済体制の基盤が、内地のみならず、朝鮮においても整備されたわけですが、残念ながら、内地と違って、朝鮮では人間主義が存在しなかった・・正確に言えば、大昔の日本文明時代には存在したがそれが失われていた・・ことが、南北を問わず、戦後、朝鮮が、日本(内地)に比して困難な道を歩むことを余儀なくさせた、と言えるのではないでしょうか。(太田)

(続く)