太田述正コラム#10205(2018.11.21)
<吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』を読む(その8)>(2019.2.10公開)

 「地域社会では、除隊した在郷軍人や帰還兵が残虐行為を正当化する言説で若者を教育した。
 1942年に・・・入営し<た>・・・歩兵<の>・・・<兵士経験者>は、「当時の日本人は、だれもが中国人を蔑視して『チャンコロ』などと呼び、中国人は利己主義で、川に誤って落ちた人が、『助けてくれ』と叫んでも『幾らくれる』とかの交渉が成立しない限りは助けてはやらない。
 また、戦争ともなればサッサと逃げてしまう、戦意のない国民である、とばかり教わり、頭から呑んでかかっていたので、北支の戦場にゆくといっても、それほど恐ろしいとは思っていなかった」として、次のように続けている。
 
 それに、どこの市町村にも、中国戦線からの帰還兵が大ぜいいて、私たち若者は、これ等、無責任な帰還兵たちから、「中国人を幾人幾人ためし斬りにした」「あちらへ行くと、直ぐ度胸試しに[銃剣で]人を突かされる」「城門一番乗りをした」とかの自慢話や手柄話を聞かされて、「戦争とは面白そうだ」と、一種の好奇心から「おれも早く戦争に行ってみたい」などと思うようになったのである。・・・

⇒この兵士経験者は、これらの記述のある本を1984年に上梓している(221)ところ、彼は、40年ほどの時間が経過しているというのに、依然として、批判的なことを書いてはいないようであるのは、彼が入営前に郷里で聞かされた、これらの伝聞が、実際、入隊してみて、事実であることが確認できたからでしょう。
 (彼が批判的なことを書いておれば、吉田は鬼の首を取ったかのようにそれを紹介したはずです。
 なお、「捕虜」の殺害については、ここでは蒸し返しません。私的制裁と同様、必要悪だった、とだけ、過去コラムで書いています(コラム#省略)。)
 それもそのはずであり、支那人論は毛沢東も認める支那人の阿Q性(コラム#省略)そのものですし、銃剣での「捕虜」刺殺を含め、支那戦線従軍の「楽しさ」は、何度か記してきたように、私の幼少時に、招集将校として支那で戦った父親から、毎夜のように聞かされた(同左)話だからです。
 つまり、「除隊した在郷軍人や帰還兵が残虐行為を正当化する言説」と、あたかも彼らが事実を歪曲した言説を行ったかのような吉田の記述はいかがなものか、ということです。(太田)

 ・・・日本の陸海軍の軍事思想には独特の特徴がみられた。
 第一には、欧米列強との長期にわたる消耗戦を戦い抜くだけの経済力、国力を持たないと言う強い自覚から、長期戦を回避し「短期決戦」、「速戦即決」を重視する作戦思想が主流を占めてきたことである。
 1907年に制定された「帝国国防方針」<(コラム#10043)>は、そうした軍事思想を集大成したものだった。・・・
 1918年の「帝国国防方針」の第一次改定では長期戦、総力戦として戦われた第一次世界大戦の影響の下で、長期の総力戦を戦い抜くという思想が新たに取り入れられた。
 ところが、1923年の第二次改定では、再び短期決戦思想に回帰し<(注7)>、36年の最後の改定でも、「複数国との長期持久戦が必至の時代であったにもかかわらず、単一国に対する短期決戦といった現実から遊離した」基本方針が採用されている・・・。」(107~108、138)

 (注7)正しくは、「総力戦に配慮しながらも短期決戦の攻勢が強調されている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E9%98%B2%E6%96%B9%E9%87%9D

⇒この帝国国防方針に関するくだりは、吉田は、黒野耐(1944年~。防大卒、陸将補、防衛研究所所員、武蔵野学院大学講師)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%87%8E%E8%80%90
の著書(2000年)に拠っている(222)ところ、そこに、1923年の改定理由が記されていなかったとすれば黒野の手落ちですが、恐らく、吉田があえて理由を落としたのでしょう。 
 1902年に締結された日英同盟が1923年8月17日に失効したこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
がその理由だと私は思っています。
 1918年までにはようやく自信がついてきたけれど、日英同盟の解消で再び自信喪失気味になった、ということではないでしょうか。(太田)

(続く)

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