太田述正コラム#10207(2018.11.22)
<吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』を読む(その9)>(2019.2.11公開)

 「第二には作戦、戦闘をすべてに優先させる作戦至上主義である。
 そのことは、補給、情報、衛生、防御、海上護衛などが軽視されたことと表裏の関係にある。
 相次ぐ船舶の喪失にもかかわらず、船団護衛などを任務とする海上護衛総司令部が発足したのは、1943年11月だった。
 陸軍も、必要な生活物資、特に食糧を後方から補給せずに、「現地徴発」を基本方針とした。・・・
 実<質的>には民衆からの略奪である。・・・

⇒海軍の方は補給路の防衛を考えなかったというのですから無能、職務怠慢、という話であるのに対し、陸軍の方はカネが不足してきたため、軍票を用いたところの、より不確実で現地民心離反の危険もある代替手段を採らざるをえなかった、という話であり、本件だけでも、海軍の陸軍に比べてのダメさかげんがよく分かろうというものです。(太田)

 第三には、日露戦争後に確立した極端な精神主義である。
 それは、砲兵などの火力や航空戦力の充実、軍の機械化や軍事技術の革新などに大きな関心を払わず、日本軍の精神的優越性をことさらに強調する風潮を生んだ。
 元陸軍中佐で戦後は著名な戦史研究者となった加登川幸太郎は、・・・日本陸軍<の>根本信条ともいえる『教義』<は、>・・・「『戦闘の決は銃剣突撃をもって決する』とする白兵主義<(注8)>・・・であった・・・と説明している。・・・

 (注8)「日露戦争における旅順攻囲戦や奉天会戦で白兵戦に苦戦した日本軍は、明治初期にフランスやプロイセンの操典を翻訳して作られた陸戦の綱領『歩兵操典』を、1909年に改訂した。この操典の綱領では「戦闘に最終の決を与えるのは銃剣突撃とす」としていた。
 当時の欧州先進各国の陸軍も、敵軍殲滅のための包囲機会を形成するのに敵陣の突破が必要である以上、白兵突撃は必要不可欠であるとしていた。これは、第一次世界大戦における砲の集中使用と機関銃の大量配備によって否定されたが、火戦の後、最終的に白兵戦で敵陣を殲滅するという考え方は残った。日本もこの状勢から、第一次大戦におけるドイツの浸透戦術を取り入れ、砲、機関銃による十分な攻撃の後の白兵突撃戦術を発展させ、その後の満洲事変、日中戦争において戦果をあげた。・・・
 日本軍の銃剣術は優秀で、兵士の練度も高く、太平洋戦争初期の自動小銃が広まっていない段階では米兵に対して優位に立ったが、米軍が反攻に転じたガダルカナル島の戦い以降は、火力に優れるアメリカ軍に対して白兵突撃はほぼ無力であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%85%B5%E6%88%A6
 浸透戦術(Infiltration tactics=Hutier tactics)は、「攻勢直前に歩兵を最前線に集結させること」「・・・短時間の強烈な砲撃」「強点をさけて弱点攻撃する」からなる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B8%E9%80%8F%E6%88%A6%E8%A1%93
 「それまでの戦術は、砲兵による入念な準備射撃の後、大勢の歩兵が戦線全体で攻勢に出る方式であり、得るものが少ない割には多大な犠牲が出ていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB

 こうした白兵主義の重視は、近接戦闘用の短機関銃(サブマシンガン)の開発を怠る結果をもたらした・・・<と、>陸軍の将校で戦後は自衛隊に入った近藤新治は・・・指摘している。」(139~141)

⇒近藤新治(1920年~)はペンネーム土門周平というちょっとした有名作家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E9%96%80%E5%91%A8%E5%B9%B3
ですが、限られたヒト・モノ・カネを白兵攻撃がらみのものに優先配分したため、本格的戦車(後出)や短機関銃等の開発まで至らなかった、ということでしょう。
 そういう状態で、蒋介石政権軍にもソ連軍(ノモンハン)にも英印軍や在比米軍(大東亜戦争初期)に勝利したのですから、白兵主義は、予定通りの大成功を収めた、と言ってよいのではないでしょうか。
 その後は、反撃してくる米軍に敗北し続けることが予見されていたので、個々の戦闘で少しばかり、より戦果を挙げ続けたとしても余り意味はない、だから、本格的な戦車や短機関銃等はいらない、という超合理的な判断を杉山らは下していた、と思われるのです。(太田)

(続く)