太田述正コラム#7522005.6.13

<義和団の乱(その1)>

1 始めに

家内が上海への出張みやげに買ってきてくれた二冊の本のうち、義和団の乱(義和団事変、義和団事件、義和団起義、北清事変、The Boxer Uprisingthe Boxer Rebellion)を取り上げた、英国人の「大衆歴史家」(女性)プレストン(Diana Preston)の手になるThe Boxer Rebellion――Chinas War on Foreigners, 1900, Robinson, 1999 を読み終えました。

もとより義和団の乱については、以前から基本的な知識は持っていたのですが、まるで長編映画を見ているような詳細でかつ生き生きした彼女の叙述に魅了されました。

まずは、史実を再確認した上で、思いつくままに、この本で面白いと思ったこと等、私の感想をご披露したいと思います。

(以下、この本については、http://www.amazon.com/gp/product/product-description/0425180840/ref=dp_proddesc_0/002-1455171-4350437?%5Fencoding=UTF8&n=283155http://www.walkerbooks.com/books/catalog.php?key=76、及びhttp://www.globalsecurity.org/wmd/library/news/china/2000/000620-prc1.htm(いずれも6月12日アクセス)による。また、義和団の乱については、特に断っていない限りhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1898a3.htmhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1900a.htmhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6http://www.tabiken.com/history/doc/F/F069L100.HTMhttp://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-hokusin.html、及びhttp://chronicles.dickinson.edu/studentwork/engage/china/boxer.htm(いずれも6月12日アクセス)による。)

2 史実

日清戦争(1894?95)に敗れた清では、「変法自彊」を唱え、支那の近代化を図ろうとする康有為(Kang Yu-wei1858?1927)や梁啓張らの進歩派が力を得ます。
 第11代皇帝光緒帝(Kuang Hsu.徳宗王・1871?1908年)は、変法自彊策を採用して改革を推進しましたが、1898年、守旧派の西太后
dowager empress, Tz’u-his1835?1908年。光緒帝のおばがクーデターを起こし、光緒帝を監禁して摂政の座に復権し、康有為らを追放しました(戊戌の政変)。その結果、反近代化政策がとられるようになり、支那民衆の排外気運が高まって行きます。

このような背景の下で、義和団の乱が起きるのです。

清の中期に山東省に生まれた義和拳(I-ho ch’üanという宗教的秘密結社の信者らは、拳法の修練によって身体を鍛え上げ、呪文を唱えれば刀や鉄砲でも身体が傷つかないと信じていました。

多くの外国人宣教師が山東省に入り込み、与えられた特権をたてに強引な布教活動や教会用地取得を行うと、民衆の怒りは彼らに向かい、教会の破壊・教徒の殺害を行うに至ります。義和拳はこうした民衆と結びついて急速に巨大化して行き、鉄道や電信の破壊、西洋商店の打ち壊しなどを始め、やがて「扶清滅洋」を唱え始めます。そして、この動きが華北全体及び満州に広がっていきます。

そうした中、1900年6月、義和団はついに北京にまで侵入し、各国公使館地区を包囲攻撃し、日独の外交官(日本公使館書記生杉山彬、独公使ケットレル)を殺害します。そして21日、義和団側に傾いた西太后が、欧米列国に宣戦を布告し、清朝と列国との武力衝突が始まります(注1)。

(注1)もっとも両広総督(viceroy)李鴻章(Li Hung Chan)・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞Chang Chih-tung)・山東巡撫(governor)袁世凱(Yuan Shikai)などの地方長官らは、宣戦布告等を無効として、諸外国と東南互保の盟約(自ら統治する領域内の列国の利権を保障し、独自の友好関係を保つ)を結んだ。

しかし、・独・英・仏・露・米・伊・オーストリア8国の連合軍が、まず7月14日に天津を占領し、8月14北京に入城して公使館地区等を解放し、事変は収束に向かいます(注2)。

(注2)連合軍の北京公使館地区籠城兵力は、442人(うち日本は、柴五郎中佐率いる25人)、北京進撃兵力は、33,000人(うち日本は、福島安正少将率いる13,000人)であり、最終的に総兵力は70,000人となった。

講話条約である北京議定書が調印されたのは1901年9月であり、日独への謝罪使の派遣、戦争責任者の処罰、賠償金の支払い(39年間で4憶5千万両=435,500万米ドル(1999年価格)公使館区域防衛のための列強軍隊の常駐北京と海岸の間の重要地点の列強軍隊による占領、などを取り決めます。

この結果、支那は列強による分割こそ免れたものの、半植民地状況になってしまうのです。

(続く)