太田述正コラム#10237(2018.12.7)
<人間主義再考(その4)>(2019.2.26公開)

 この関連でのやはり面白い記事に、先だっても遭遇しました。↓
https://www.newsweek.com/2018/11/30/xi-jinping-china-president-donald-trump-asia-1227076.html
(11月22日アクセス)
 ご紹介したいのは、次のくだりです。
 「毛沢東を思い出させるような、2014年における演説の中で、習近平は、ドイツの哲学者のカール・ヤスパースと彼の「枢軸の時代」概念に言及した。
 この概念は1950年代に流行ったけれどその後は忘れられている。
 この観念は、世界中で強力な諸文化が出現したところの、(文明の黎明期と似た)時期があった、というものだ。
 この概念を発展させて、ヤスパースは、全球的な統一の可能性を見出そうと試みた。
 それに対して、習は、それを、支那が別個の文明であることを示すちょっとして手段・・その独特の発展を正当化するための・・と見た。
 ヤスパースのもともとの著作における、人類(humanity)にとっての共通の場(ground)は、文化的混淆と外からの諸影響とは無縁(impermeable)であるところの、文明の排他的概念へと、明らかに道を譲った。
 上海復旦大学(Fudan University, Shanghai)の張維為(Zhang Weiwei)(注4)教授は、習に大きな影響を与えている人々のうちの一人だ。

 (注4)2011年のフランシス・フクヤマとの対談で、アラブの春が中共にも訪れるかもしれないとのフクヤマの言に対し、<それは>米国にとって必ずしもいいことではなく、早晩、アラブの冬になるだろう、と言い返したことで有名。
https://en.wikipedia.org/wiki/Zhang_Weiwei_(professor)

 張は、彼の同僚たちの多くと同様、支那は、世界に影響を与える存在になるだろう、と主張している。
 彼にとっては、欧米がその頂点に位置する垂直世界から脱却して、支那を含め、全ての諸国が、富と諸観念に関して欧米と平等になるであろうところの、水平な世界へと我々は移動中なのだ。
 「これは、人間の歴史における、経済的、政治的重心の空前の遷移(shift)なのであって、世界を永久に変えることだろう」、と彼は述べている。
 結構なことに、張によれば、習が、この新しいパラダイムを実行する人物になるだろう、というのだ。」

 私がかねてより注目してきた枢軸の時代に、中共当局、とりわけ習近平も、このように注目していることは偶然とは思えないのであり、おこがましいかもしれませんが、私と彼が考えていることが同期している可能性が高まった、と言えるのではないでしょうか。
 残念ながら、引用したコラムの筆者は、枢軸の時代についての習の所見を紹介することなく、(曲解的)批判を投げかけていますが、仮に、習の所見が判明したとしても、どうせ、韜晦されているでしょうから、私が、習のホンネを想像してみましょう。
 実は、習は、(TPOが分からないのが残念ですが、)仏教についても好意的発言をしています。↓

 「仏教は<、支那>の特徴ある文化であり、<支那>人の信仰心や考え方、文化や習慣などに大きな影響を及ぼした。」
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3787/1.html

 このことも踏まえれば、習のホンネは、枢軸の時代に生まれた仏教の影響下で、程明道が、同じく枢軸の時代に生まれた儒教が最も重視してきた仁について、それを「万物一体の仁」と再定義し、それが人間本来の「人性」であることを指摘し、王陽明が、この「人性」に即した言動を人間は行わなければならないと提唱したところ、自分は、中共の人民達に対し、(そんな「思想」抜きに、「人性」を身に着けているように見える、大方の日本人達にできる限り接し、彼らを模範としつつ、)王陽明の儒教を学び身に着けるよう促している、といった感じではないでしょうか。

 ところで、皆さん、天皇家の男子が、ことごとく「〇仁」という名前(諱)であることにお気付きでしょうか。
 そんな慣例は、いつからか?↓

 「後桃園天皇<(1758~79年。天皇:1770~79年)>以降(女帝である明正天皇と後桜町天皇を除けば後小松天皇以降)の歴代天皇、桂宮家、有栖川宮家および閑院宮家では「仁」を「通字」とすることが慣例となっている。 多くの場合、「○仁」を「○ひと」と読む。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81

 とまあ、そういうことなのですが、女帝達を除き、かつ、南北朝時代に関し、持明院統・北朝正統論に立てば、それは、後堀川天皇(1212~34年。天皇:1221~32年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A0%80%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
以来の慣例である、ということになるのです。
 それは、程明道の「万物一体の仁」思想が日本に伝わった頃と符合しています。
 天皇家が、男子に、一律に、「〇仁」という諱を付けるようになったのは、天皇家が、「万物一体の仁」、すなわち人間主義、の、日本における総元締めである、との自負からではないか、と私は見るに至っています。
 ちなみに、「〇仁」を諱とする天皇の初出は、(調べ尽くしたわけではありませんが、)清和天皇(850~881年。天皇:858~876年) 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
ではないかと思われます。
 その頃の「仁」は、「万物一体の仁」ならぬ、孔孟の「仁」であったけれど、日本人の心性・・人間主義の基本・・には合致していたので、天皇家における男子の諱に折に触れて用いるようになった、ということではないでしょうか。
 しかし、この清和天皇を祖とする武士である、清和源氏が、武家の本流になったことは、象徴的です。
 日本においては、武の源流ないし核心に人間主義があることを象徴している、という意味において・・。

(続く)