太田述正コラム#10241(2018.12.9)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その5)>(2019.2.28公開)

 「これら二つの文書が示しているように、国民政府を転覆させるという中共の根本政策は民族の危機が深まっているときでも、なんら変わらなかった。
 「武装抗日のためにはまず国民党を打倒しなければならない」というスローガンが、同じ文書の中に出てくる。
 変わったのはただ中共の戦術だけである。
 すなわち、抗日の名をもって、時間稼ぎをしながら戦争を準備するという国民政府の重要な戦略宣伝を「不抵抗」と歪曲するとともに、人心を篭絡するために即刻日本に宣戦し、国民政府の指導力を弱め、その後再び武力によって国民政府を転覆させる活動を進めた。
 中共は、抗戦の名によって抗戦を破壊し、内部から中国の抗戦を傷つけたのである。

⇒それこそ、(国民政府をバカ褒めしている点を除き、)そのままいただきたい箇所なのですが、そうもいきません。
 著者が、この二つの文書を引用している箇所をいくら読んでも、そんなことは書かれていないからです。
 行間を読めと言うのであれば、何らかの補強的典拠を提示してくれる必要がありますが、著者は一切してくれていません。
 そもそも、問題なのは、「二つの文書」が発出された時期です。
 既に指摘したように、これは、毛沢東が中国共産党の権力を掌握する前の時点なのであって、仮に著者の主張が正しいとしても、その「政策」が、毛の権力掌握後も維持されたかどうかは別問題でしょう。
 しかも、この時期は、国民政府軍が、日本とは停戦中で中国共産党を殲滅しようと同党に全面攻撃を仕掛けて来ていたのであり、同党はその存続をかけて国民政府軍と戦うより他はなかった、というのに・・。(太田)

 このような理論的な指針とコミンテルンの指導の下、中華ソビエト共和国は1934年7月、有名な「抗日先遣隊」を派遣した。
 中共中央はこの「抗日先遣隊」のために、特別に訓令を発した。・・・
 そのタイトルは「抗日先遣隊の名目で、7軍団を」閩浙(びんせつ)[福建・浙江省]に派遣することに関する中央政治局、中央人民委員会の作戦命令」である。
 だが、このころ福建省、浙江省に日本兵は一兵もおらず、両者は国民政府の重要な戦略地帯であった。
 これは日本軍に打撃を与える「抗日先遣隊」ではなかったのである。・・・

⇒部隊の名称なんてそう気にしなくてもいいじゃないか、と言いたくなります。(太田)
 中央紅軍のいわゆる・・・長征も、有名な・・・「北上抗日」・・・行動として教科書に記述されている。・・・
 最も早く・・・<そう>言い立てたのは、毛沢東・・・と朱徳・・・である。・・・
 三ルート<で>紅軍は生存のために逃亡し、その後北上したが、彼らの戦略的な移転行動は、日本軍とともに国軍を挟み撃ちにするためのものだった。・・・

⇒ここも、涎が出そうな箇所ですが、残念ながら、やはり、著者の臆測でしかありません。(太田)

 長征で三つのルートをたどった紅軍は、一貫して西進路線を取ったが、突如北上することに改められた。
 それはまったくの偶然かつ生存の必要から出たもので、河西を出発したときに、いわゆる「北上抗日」の戦略的路線が制定されたのではない。・・・

⇒著者は、自分の主張と正反対の主張を、舌の根も乾かないうちに行って平然としているのですから、唖然とするしかありません。(太田)

 中共の北上は二つのルートに分かれる。・・・
 左ルートのうち、西路軍は・・・ソ連の直接援助を獲得するため新疆との交通ルートを開くことを狙った。<ここには典拠が付されている。(太田)>・・・
 このこと<は、>左ルート軍の北上であれ、右ルート軍の北上であれ、基本的な任務はソ連との交通ルートを開くことだったことを示している。

⇒支援してくれる可能性が高い勢力との間の支援ルートを開拓しようとするのは当然でしょう。(太田)

 それはスターリンの決定であって、決して抗日のためではない。

⇒ここに論理の著しい飛躍があることが、皆さん、お分かりでしょう。(太田)

 中共はモスクワの利益のために民族の危機を顧みず、しかもモスクワの指揮のもと、戦略的に長期間にわたり抗日戦争の後方で攪乱を行った<のだ>。・・・」(35~36、38~39、41)

⇒この時点では反ソ派の毛沢東が、一転、中国共産党の権力を掌握しており、そんな彼が「モスクワの指揮」になど服すはずがないというのに、著者にも困ったものです。(太田)

(続く)