太田述正コラム#7582005.6.19

<中共の経済高度成長?(その2)>

 フランシス・フクヤマは、ヴェーバー流の文化論(文明論)は、より精緻な理論を構築できない学者が逃げ込むエセ科学である、と言って一刀両断に切り捨てています(http://www.nytimes.com/2005/03/13/books/review/013FUKUYA.html?8hpib=&pagewanted=print&position=。3月13日アクセス)が、これは言い過ぎです。

 確かにヴェーバー自身、いくつも誤りを犯しました。

 プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神をもたらしたと指摘したこと一つとってもそうです(コラム#16529)(注2)し、儒教や道教と支那の停滞性とをストレートに結びつけたこともそうです(NYタイムス上掲)。

 (注2)ヴェーバーは、カルヴィニズムの予定説(predestination。ある人間が救われるかどうかは神によってあらかじめ決められている、という考え方)が、救済の証を求めて(カトリシズムとは違って)人々を無限の営利追求へと駆り立てたこと、かつ(カルヴィニズムを含む)プロテスタンティズムが家族外においても倫理的に振る舞うことを求めたこと、が資本主義の精神をもたらした、と指摘した。

しかし、宗教改革よりはるか以前のカトリシズムの欧州で資本主義的な精神が生まれており、カトリシズム地域が経済的にプロテスタント地域の後塵を拝するようになたのは反宗教改革以降の話であること、ユダヤ教にも(ゾンバルト。Werner Sombart)日本の江戸時代の心学等にも(ベラー。Robert Bellah)資本主義的な精神を見出すことができるといった批判が投げかけられた結果、ヴェーバーのこの説は否定されている(NYタイムス上掲)。

私自身は、上記論議そのものが的はずれなのであって、資本主義はアングロサクソン・ウェイ・オブ・ライフそのものであり、欧州や日本は、いずれも自生的には資本主義を生み出すことができず、それぞれイギリスから「輸入」することで、かろうじて資本主義的社会(アングロサクソン的社会)となったと考えている。こういうわけで私は、現在の世界は、資本主義諸国(アングロサクソン諸国)、資本主義的諸国(アングロサクソン諸国以外のOECD諸国プラスアルファ)、資本主義もどき諸国等、の三つに大きく分かれている、と見ている。

 しかし私は、ヴェーバーのこの資本主義の精神に係る指摘を、「経済が持続的に発展する(豊かな社会が持続する)ためには、個人の営利追求への社会的制約があってはならないが、営利追求への心理的制約はなければならない」と読み替えればそれは正しい、と考えています。拙著(「防衛庁再生宣言」日本評論社2001169?170頁)でもやや舌足らずながら同趣旨のことを申し上げたつもりですが、前段だけでは遠心力が働いて社会が安定的に維持できなくなるし、後段だけでは経済が発展せず停滞してしまうのであって、この二つの相反する要素がバランスがとれていて初めて、資本主義社会や資本主義的社会が成り立ち得る、ということです。

 また、ヴェーバーのより基本的な指摘、「人間の行為を直接に支配するものは利害関心(物質的ならびに観念的な)であって理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍器(ターンテーブル)として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を押し進めてきたのである。」については、何の読み替えの必要もなく、そのままで正しいと思っています(コラム#16)。

こういうヴェーバー的視点で現在の中共を観察すると、人々に「理念」らしい「理念」はなく、その「世界像」は呪術に満たされているように見えますし、個人の営利追求に対して恣意的な国家権力の介入があり得る一方で、個人の営利追求に対する心理的制約は皆無であるようにも見えます。

現在の中共では、一般民衆はもとより、企業経営者から共産党幹部に至るまで、仏教や道教の寺院詣でが大流行であり、すっかり20世紀前半までの支那に戻ってしまった感があります。

もとよりそれは昔同様、精神的救済を求めて行われているわけではなく、仏様や神様に多額のお布施を捧げる見返りとして、仏様や神様に自分や自分の家族を権力による恣意的介入から守ってもらい(注3)、栄達させてもらい、金持ちにさせてもらう、というギブアンドテークの徹頭徹尾呪術的な現世利益目的のための参詣です。

(注3)何せ、汚職に手を染めていない共産党幹部などほとんどいないのだから、権力による恣意的介入どころか、権力の「正当な」介入をいつ受けても不思議でない以上、神や仏を「買収」してでも守ってもらう必要があるわけだ。

比較的最近までは、さすがに共産党幹部が自分で参詣するのははばかられたため、配偶者が代参することが多かったのですが、昨年、まだ軍事委員会主席であった江沢民が二箇所も仏教寺院に大真面目に参詣しており、時代が更に変わりつつあることをうかがわせます。

(以上、中共の参詣ブームについてはhttp://www.atimes.com/atimes/China/GC01Ad05.html(3月1日アクセス)による。なお、私自身が中共で見た明の陵墓での賽銭の山の話はコラム#132参照。)

こういう人々の姿を見るにつけ、現在の中共においては、資本主義的経済が機能する基本的条件が欠けている、と言わざるを得ないのです。

(続く)