太田述正コラム#10271(2018.12.24)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その14)>(2019.3.15公開)

 「王明は党内闘争で毛沢東に敗れ、中共が政権を奪取したのちは、毛の圧迫に耐えかねてソ連に移住した。・・・
 彼がソ連で書いた回想録は、・・・中共による抗日戦争の裏切りを探求するルートを提供してくれた。
 王明は次のように書いている。
 「・・・毛沢東は党中央の同意を経ず、中央軍事委員会放送局を使って秘密裏に新四軍政治局員の饒漱石<(注13)>(ぎょうそうせき)に電報を送り、人を派遣して汪兆銘と反蒋介石の協力交渉を行い、同時に日本と汪兆銘に反対する軍事行動を停止するよう求めた。

 (注13)「上海で大学卒業後、労働運動に参加。1927年、武漢政府で活動ののちソ連などに亡命、帰国して上海を中心に地下活動を行い、のち延安に赴き、抗日戦争中は新四軍の政治委員として長江流域で活躍。1945年の中国共産党第7回大会で中央政治局委員。1949年4月、陳毅司令のもとで政治委員として長江渡河作戦を指導。新中国成立とともに中央人民政府委員、上海を中心とする華東行政委員会主席、ついで党中央組織部長、国家計画委員会委員。まもなく東北行政委員会主席の高崗と気脈を通じ、いわゆる反党事件に連座、1955年4月全職務を解任され、除名、投獄された。」なお、ここでは、「ぎょうそうせき」ではなく、「「じょう」そうせき」と読ませている。
https://kotobank.jp/word/%E9%A5%92%E6%BC%B1%E7%9F%B3-1339669

 だが日本人であれ汪兆銘であれ、毛沢東が「第二の汪兆銘」になるとは信じられなかった。
 汪らはいずれも、共産党がなにか陰謀を企んでいるのではないか、彼らを騙そうとしているのではないかと疑っていた。
 したがって交渉はなんら具体的な結果に結びつかなかった。」
 「蒋介石の特務機関は当時、毛沢東が日本および汪と結託している事実を反共産党の宣伝の武器にしようとした。
 幸いにも、中国共産党は人民のあいだできわめて大きな威信をもち、また抗日民族革命戦争と抗日民族統一戦線を発動した政党でもあった。
 したがって、蒋介石一派は、中共指導者の中に秦檜[忠臣岳飛(がくひ)を殺害した宋の奸臣。大悪人の代名詞]<(注14)>や汪兆銘式の民族のクズが出現したと人民に信じさせることはできなかった。

 (注14)南宋の宰相の秦檜(1091~1155年)に対して、南宋の敵である金への利敵行為を行ったと糾弾したのは、金と宋(南宋)の両方を打倒した元だったが、女真人として金と同族であるところの、清の統治下では、秦檜に理解を示す論調が多かった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%AA%9C

⇒毛沢東や現中共当局の秦檜観は詳らかにしませんが、こんな微妙な歴史上の人物を持ち出したことからも、王明の周到さの欠如が見てとれます。(太田)

 結果的に、彼らはこれを使って反共宣伝を行ったが、なんの成果も得られなかった。」
 「1955年、毛沢東は『高崗<(注15)>(こうこう)・饒漱石連盟』に」反対するとの口実のもとに、饒漱石を逮捕・殺害し、機に乗じて、毛沢東の命令を受けて日本および汪兆銘との交渉代表を務めた潘漢年<(注16)>(当時、新四軍の情報部長)と日汪[日本と汪兆銘]側の交渉代表だった胡鈞鶴(もとはわが党の叛徒。右の交渉で潘漢年同志が改めてわが党に奉仕するよう説得した)を逮捕・殺害しようとした。

 (注15)1905~54年。「1926年、中国共産党に入党。その後、党歴や軍歴を重ね、1930年代の第一次国共内戦では中国西北部で習仲勲らとともに革命根拠地を建設するなどの活躍を見せた。1945年6月、第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)で中央政治局委員に選出される。第二次国共内戦が始まると、中国東北部(満州)で活動し、党中央東北局第一書記、東北人民政府主席、東北軍区司令員(司令官)兼政治委員を務め、東北部の党・政・軍を一手に掌握した。1948年には中華人民共和国の建国に先駆けて、「ソ連・東北人民政府貿易協定」を結ぶなど、独自の地方運営を行い、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との関係を深めていった。
 1949年10月1日に中華人民共和国が建国されると、高崗は中央人民政府副主席に任命された。さらに東北行政委員会主席を兼任し、引き続き東北地方を掌握した。1950年6月の朝鮮戦争の勃発に際しては、・・・高崗は林彪らと共に中国軍の即時出兵に反対の立場をとっていた。・・・
 1951年10月、中央人民政府人民革命軍事委員会副主席を兼任。翌年、これまで活動の拠点としていた東北部から北京に移り、11月15日、新設された中央人民政府国家計画委員会の主席に就任、ソ連方式の経済建設の陣頭指揮をとることとなった。
 1953年1月より、高崗率いる国家計画委員会の主導で第一次五カ年計画が発動された。中央人民政府主席兼中国共産党中央委員会主席として中華人民共和国の最高指導者の地位にあった毛沢東は向ソ一辺倒を標榜し、8月には「過渡期の総路線」を提唱して段階的社会主義化を提示した。毛沢東の方針の下、ソ連との結びつきの強い高崗が中心となって、ソ連型社会主義をモデルに中華人民共和国の国家建設が進められた。
 ・・・1952年12月に毛沢東が病気療養のために党務から離れ、劉少奇が党主席代理として党務を取り仕切った際に高崗が劉を批判し、同月24日に党務に復帰した毛が中央政治局会議において「北京には二つの司令部がある。私の司令部と別の人物の司令部だ」と発言して、暗に高崗とその仲間の饒漱石を非難したという。1954年2月、第7期4中全会が開かれ・・・高崗と饒漱石は、この会議において朱徳・周恩来・鄧小平・陳雲らによって「反党分裂活動を起こした」と厳しく批判され、失脚に追い込まれた。・・・1953年3月にはスターリンが死去しており、さらにスターリンと緊密だった高崗が失脚すると、毛沢東の経済政策は脱ソ連化が進んでいった。
 高崗は第7期4中全会の最中に自殺未遂を起こし一命を取り留めたが、結局1954年8月17日に服毒自殺した。そして翌年3月31日、党全国代表者会議において・・・「高崗・饒漱石反党連盟に関する決議」が採択され、高崗は東北部を「独立王国たらしめようとした」と批判されて党籍を剥奪された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B4%97
 (注16)はんかんねん(1906~77年)。スパイ、作家、上海副市長。1962年逮捕、反革命罪で服役し、1967年出獄。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/11/post-4119.php
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%98%E6%B1%89%E5%B9%B4

⇒横道に逸れるが、「注15」に出てくる、毛沢東の「向ソ一辺倒」の掛け声は、1949年に核実験を成功させていたソ連
https://jp.rbth.com/politics/2015/08/24/391859
から、朝鮮戦争での「協力」の見返りとして、核情報を含む、軍事・技術・経済上の利益を引き出すためのポーズである、と私は見ており、それが、高崗のような親ソ派の残滓や、饒漱石のような毛の日本との連携について知り過ぎている人物達、を抹殺する名目をでっち上げる手段としても用いられたわけです。(太田)
 
 これはつまり彼(毛尾)が実行した漢奸路線の人的証拠を消滅するためであった」(122~124)

(続く)