太田述正コラム#10448(2019.3.23)
<皆さんとディスカッション(続x4020)/明治維新150年を文明論的観点から考える(続々)>

<太田>(ツイッターより)(昨日掲載し忘れたもの)

 日本国民の多くは常識を身に着けている。↓
 「「韓国を旅行したい」…インドネシア86.5%、日本28.3%…」
http://news.livedoor.com/article/detail/16187481/
 でも、日本の官僚の中には二重に非常識な者も。↓
 「…私用で韓国に渡航中の<厚労省>課長…「韓国人が嫌いだ」韓国の空港で酒に酔い暴言…更迭…」
http://news.livedoor.com/article/detail/16190166/

<EVXzBN85>

 「岡田斗司夫ゼミ3月17日号「国家のピンチにすぐ脱ぐプーチン大統領!月着陸を信じないロシア愛国ガイド・ボンさんの巻」・・・」
https://www.youtube.com/watch?v=SU-4MIUloZk
 太田さんの言うところの、タタールの軛症候群に言及しているユーチューバーが居ました。
 ちょっとロシア旅行に行っただけの門外漢がすぐに気付く程度の事ですから、西欧の知識人が見抜けないのは確かに変であり、奴隷制の長期的悪影響に対して目を背けたいからだ、という太田さんの指摘は当たってそうです。

<太田>

 その他の記事の紹介は、明日以降に回します。

<K.K>

≫本日、ヤマハの修理センター及びサポート窓口との間で、計6時間近くやり取りをしたが、ついに、ヤマハのシステムが完全復旧には至らなかったため、結局、27日に修理センターから人が拙宅に出向いて対応してくれることになった。≪(コラム#10446。太田)

 タブレットが、J:COM貸与のホームゲートウェイにWi-Fi接続されていますよね。
 それで、ホームゲートウェイがパソコン部屋にあって、太田さん所有のNECのルーターがリビングルームにあるのであれば、タブレットの接続先をNECのルーターに変更するという方法もあります。
 Wi-Fiの電波状況が原因かもしれないという場合は、タブレットの接続先をNECのルーターに変更することを考慮してください。

≫一、リアスピーカー2台のどちらでも、タブレット上のヤマハのMusicastソフトを使って、インターネット上の(有料のはもとより無料のものも)音楽を流せることが分かった。≪(同上)

 WindowsのiTuneもワイヤレススピーカー出力対応(AirPlay)で、以前出力できるか検証しましたが、再生したファイルがFLACファイルであった為に出力出来ませんでした。iTuneのAirPlayが対応しているファイル形式であれば、出力できるはずです。
 MusicBeeもプラグインをインストールすれば、ワイヤレススピーカーに出力できます。ただし、このプラグインは、有料です。

・Remote Speakers Output Plug-In
http://emilles.dyndns.org/software/out_apx.html

 もっとも太田さんの場合は、Windowsパソコンからワイヤレススピーカーに出力させる必要性はあまりないと思います。

 Windowsパソコンを起動させておいて、スマートフォン/タブレットの「Musiccast CONTROLLER」から、Windowsパソコンの音楽ファイルにアクセスして再生できるかどうかはちょっと分からないです。

≫この分なら、Amazon Echoで聞いている音楽等を(Amazon Echo経由で)リアスピーカーで聴くこともできる、と見た。≪(同上)

 Amazon Echoの制御ソフト、Amazon Alexaで、Musiccastを操作出来るそうです。

・独自のワイヤレスネットワーク機能が「Amazon Alexa」に対応し、快適な音声操作を実現 ヤマハ 『MusicCast®スマートホーム』スキル – ニュースリリース – ヤマハ株式会社
https://www.yamaha.com/ja/news_release/2018/18100901/

≫二、上記Musicastソフトで、サウンドバー等の障害診断もできるということで、診断した結果をクリップボードにコピーさせられたのだが、それを、同タブレット上のChromeでヤマハのHPからヤマハに送ろうとした時、指示された通り、画面上のメッセージ欄を指で押しても、ペースト表示が出ず、失敗した。(K.Kさん、これ、一体、なんでだったんですかねえ。)≪(同上)

 文面からだけでは正確なことは言えませんが、ペーストのメニューを出すためには、ロングタップする必要があったのだと思います。ロングタップする時間が短すぎたのかな~、というところです。
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 一人題名のない音楽会です。

ショパン 幻想即興曲 ピアニスト 近藤由貴
https://www.youtube.com/watch?v=EattoN3Y06I

ショパン バラード第1番
https://www.youtube.com/watch?v=460cGzvfFTw&start_radio=1&list=RD460cGzvfFTw

ランゲ:花の歌(注) ピアニスト 近藤由貴/Lange: Blumenlied, Yuki Kondo
https://www.youtube.com/watch?v=JSp4OvCO6ow

(注)「ランゲ ドイツのピアニストのグスタフ・ランゲ(1830-1889)の作品。ランゲは400曲以上のピアノ曲を作曲し、当時大変流行したが、ランゲの作品のうちで現在最もポピュラーな曲がこの《花の歌》である。」
https://enc.piano.or.jp/musics/347

エステン 人形の夢と目覚め(注)(1862年)
https://www.youtube.com/watch?v=IUU3xqmaPQY

(注)「Dolly’s Dreaming and Awakening・・・テオドール・エステン(セオドア・オースティン)が作曲したピアノ小品。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E3%81%AE%E5%A4%A2%E3%81%A8%E7%9B%AE%E8%A6%9A%E3%82%81
 「エステン<(1813~70年)は、>・・・ドイツのピアノ教師で作曲家」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3

ドビュッシー アラベスク第1番
https://www.youtube.com/watch?v=XgkJNDEdBw4&list=RD460cGzvfFTw&index=19

サン=サーンス(編曲 ガルバン) 動物の謝肉祭より「水族館」
https://www.youtube.com/watch?v=mCXT2rsSmSA

ギロック(注):雨の日の噴水 
https://www.youtube.com/watch?v=3adWTgcvWWo

(注)William L. Gillock(1917~1993年)。米の音楽教育家、作曲家。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF

(続く)
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–明治維新150年を文明論的観点から考える(続々)–

 スライド集・・当然ながらここには物理的に掲載できない・・及び下掲のスライド解説、を確定した後、昨日朝、八幡市に送ってから、どうして、帝国陸軍の幹部達が、戦前の日本で隔絶的な知力を有する集団になったのかを説明していないことに気付きました。
 実は、(下掲の解説中でも登場する)岩畔豪雄が、学生の優秀度は、陸士、海兵、一高、の順だったと指摘しているのです。
 戦前においては、陸海軍の幹部になれば、(戦争等で不慮の死を遂げる確率が、文官等に比して高いとはいえ、)政界に打って出ることも、いや、首相になることもできるし、台湾や韓国の総督になることも、国策会社の幹部、ひいては社長になることもできる、といったことから、優秀で野心のある人材が陸海軍に集まったのは不思議ではないでしょう。
 その上でですが、陸軍の方に海軍に比べてより優秀な人材が集まったのは、海軍には艦艇生活の不快さ、窮屈さ、というマイナス要因があったことに加え、陸軍だけが幼年学校を持っていて、優秀な人材の早期囲い込みに成功したことが挙げられると思います。
 (念のためですが、幼年学校のより重要な設置目的は、やはりスライド解説中に登場するところの、「勝海舟通奏低音」(コラム#10238)が鳴り響く娑婆に「汚染」される前に若者達に武士教育的なものを施すところにあったのであり、幼年学校は、まさに、それに成功し、陸軍は、海軍に比べて、より軍人らしい軍人を確保することができたのです。)
 このほか、杉山元が、島津斉彬コンセンサスの前倒し達成を図らざるを得なかった理由として、もう一つ挙げなければならないのは、勝海舟通奏低音の音量がどんどん高まってきていて、早晩、陸軍も機能しなくなる可能性が高い、と認識したであろうことも付け加えておきます。
 また、牧野伸顕が『島津斉彬言行録』を(再)出版したのが1944年(昭和19年)であるところ、これぞまさしく、牧野が、日中戦争/大東亜戦争が何であったかを解き明かす手がかりを後世に残そうとしたからであったと考えられる、という話が抜けていました。
 予想より、まず政治家、そして今や官僚、の劣化の進行が早く、日本が脳死してしまったら、もはや、「独立」など望むべくもない、という話を盛り込むのも忘れてしまっていましたね。
 ああ、それから、帝国陸軍とべトミンの関係の話が2か所に出てきてしまっていました!

〇スライド#3の解説

 横井小楠コンセンサスの話を、3年度前、この場でしたわけですが、このコンセンサスを、ロシア抑止と言い換えれば、それが明治以降の日本の安全保障政策の最重要課題であり続けたことについて、異論を唱える人はそう多くはないと思います。
 他方、私自身、今からお話しする島津斉彬コンセンサスの存在に、昨年、気付いたばかりなのですが、気付いた人は、いまだに私以外はいません。
 どうしてそうなのかですが、横井小楠コンセンサスが顕教だとすれば、島津斉彬コンセンサスは密教であったからでしょうね。
 単純な話、明治維新から日華事変が始まる頃までの間、英国は日本の与国ないし同盟国であり続けたことから、日本は、実は英国も敵視しているだの、英国等の植民地支配からアジアを解放したいと思っているだの、を公然と政府関係者が語ることは憚られたわけです。
 それは、陸海軍の内部でも同じで、陸士・海兵や陸大・海大、等では、横井小楠コンセンサス的なものは教えられても、島津斉彬コンセンサス的なものを教えるのは憚られたはずであり、それは、一部の、しかし、最も有力で、かつ、相互に気心の知れたところの、幹部達の間で、声を潜めて口伝で伝承されるにとどまった、と想像されるのです。
 (もとより、日本でも、英国の在東アジア軍事力を相手にした机上作戦計画的なものは策定され続けたでしょうが、世界のまともな国であれば、与国、潜在敵国、を問わず、当該国に係る、全ての主要な周辺国や関係国、に対する机上作戦計画的なものを策定するのが普通であって、それは別の話です。)
 このスライドは、『島津斉彬言行録』という本、と、この本に盛り込まれていない、斉彬の史実たる事績、をもとに、島津斉彬コンセンサスを、できるだけ忠実かつ簡潔に紹介したものです。
 それを一瞥されただけで、日本の幕末以降の国の歩みが、ほぼこのコンセンサス通りに進展したことにお気付きになると思います。
 「<明治>維新」は成功しましたし、「富国・・・強兵」についてはご承知の通りですし、「東アジア戦略要衝・・・確保」は、朝鮮、満蒙への日本の進出の形で実行に移されましたし、「欧州<との>・・・提携」は、日独伊同盟の形で結実しています。
 「アジアを辱めよ」だって、1895年の朝鮮閔妃殺害事件や1915年の対華21ヶ条要求、等の形で実行に移されたところです。
 付言しておきますが、明治維新以降の日本の大きな問題点の一つとして、島津斉彬コンセンサス、と、その部分集合たる横井小楠コンセンサス、に共通するところの、「軍事重視(弥生性)」の意識を、陸士・海兵等の軍学校以外の学校では身に着けさせる教育が行われなかったため、非軍事官庁の官僚達を始めとする娑婆、と、軍人達、との間で、考え方において断絶が生じてしまったことが挙げられます。
 これでは、軍人達も、やがては、娑婆の考え方・・私はそれを、勝海舟通奏低音と呼んでいます・・に染まってしまう恐れがありました。
 そこで、陸軍が設置したのが、陸士よりも低学年の生徒(学生)を対象とする幼年学校であり、ここに、日本で最も優秀、かつ、可塑性に富んだ子弟の入学者を確保できたこともあって、(同様の学校を設置しなかった海軍とは違って、)陸軍では、正しい意味での軍事重視の意識が風化するのを回避することができたのです。
 また、早い段階から、軍人達の中の島津斉彬コンセンサス信奉者達は、気心の知れた民間の有志達と示し合わせ、この有志達に、日本国民の間に、アジアの覚醒・復興を支援する、いわゆるアジア主義、を広める活動を行ってもらったのですが、これがやがて功を奏し、昭和に入ると、その政府おける推進母体として、陸軍内の島津斉彬コンセンサス信奉者達に期待する世論が次第に高まって行くのです。

〇スライド#4の解説

島津斉彬コンセンサスの実行の第一フェーズは、明治維新です。
 大きな革命が比較的低レベルの流血で成功裏に行われた、という点で、明治維新は世界的にも珍しいのですが、それは、幕府が、教育で空洞化し、更に血縁で浸食され、たことで成し遂げられたものです。
 まず、教育で空洞化し、というのは、太平の世が続いたことにより、幕府(親藩、譜代を含む)側の武士達が武士意識が風化して行政官化してしまったのに対し、外様の側の諸藩の大部分において、武士達は行政官であると同時に武士でもあり続けたからです。
 どこが違ったかと言うと、前者の藩校群では、基本的に、昌平坂学問所(昌平黌)に倣って作られ、兵学教育を伴わない行政官教育を行ったのに対し、後者の藩校群では、基本的に、兵学教育を伴った武士教育を行った点です。
 (ちなみに、後者において、武士の理想像とされたのは、山鹿素行の薫陶を直接受けていて、赤穂浪士達を率いて1703年1月(元禄15年12月)に吉良家への討ち入りを果たした、皆さんよくご存知の大石良雄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6
です。)
 その結果、東漸してきて17世紀にオホーツク海に到達するに至った、ロシアの脅威に対する政治軍事的な危機意識において、行政官集団へと堕しつつあった幕府側と武士集団であり続けた外様側との間で温度差が生じ、その差が次第に拡大して行き、19世紀に入って、欧米勢力が海路、日本及びその周辺に出没するようになると、その差が埋めようがないほど急速に拡大して行ったのです。
 次に、血縁で浸食され、というのは、このような背景の下で、蘭学フェチで子沢山でかつ長生きであった薩摩藩主の島津重豪が、中津藩のような親藩、福岡藩のような外様、に入り婿(息子)を送り込むことで薩摩藩の九州での地位を強化し幕府の地位を弱めるとともに、将軍徳川家斉に近衛家経由で正室(娘)を送り込むことで、幕府を侵食し、幕府に対して影響力を持つに至ったことを指しています。
 この近衛家経由、というのがミソなのであって、当時の近衛家当主の経熙が養父になったのですが、それは、経熙の祖父の正室が薩摩藩第4代藩主の島津吉貴の娘だったという関係からなのです。
 この「先例」があったからこそ、重豪のひ孫の斉彬が行うことができたのが、自分の実娘でもない、祖父・斉宣の孫、を養女にして篤子(篤姫)へと改名させ、更に彼女を、その正室が斉宣の娘であったところの、当時の近衛家当主の忠煕、の養女にするという力技での、近衛家経由方式によってなされた、将軍徳川家定の正室への送り込みでした。
 このような、島津家と近衛家との血縁関係、というか、関係、は、以上にとどまらないのであって、鎌倉時代に遡る長くかつ深いものがある(コラム#9902)のですが、この近衛家には、江戸時代初期以来、最も皇室に近い摂家たる格式が与えられていたところ、このことから、もともと徳川御三家中最も尊王であり、近衛家とも血縁関係があった、という伝統を受け継ぐ尾張徳川家、と、島津家、との間には疑似血縁関係意識があったのです。
 上述した篤姫の件もそうですが、斉彬は、長生きだった重豪によって、その天稟を愛され、薫陶を直接受けさせられ、蘭学フェチを含む重豪の世界観を継受させられた上、上述したような、重豪による様々な血縁関係の布石を活用できたこと、と、(佐賀藩主の鍋島直正が母方の従兄弟、宇和島藩主の伊達宗城の正室が母方の従姉妹、土佐藩主の山内容堂の義母が妹、更に言えば、長州藩主の毛利敬親の養子の姉妹が、容堂の養子の正室であった、といった)血縁上の幸運もあって、九州全域、中国の要衝、近畿というか日本の要衝(天皇家/近衛家)、及び、中部の要衝、を掌握するに至ったところの、島津家の斉彬は、御三家中、尾張家に続いて尊王であった水戸家出身の慶喜の将軍擁立に動くことで、ほぼ彼一人でもって、低レベルの流血による明治維新、のお膳立てを整えることができたのです。(コラム#9902)
 薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らは、島津斉彬コンセンサスを抱懐しつつ、このお膳立てに乗っかることで、若干の紆余曲折はあったものの、さほどの苦労もなく、明治維新に成功した、というわけです。

〇スライド#5の解説

 このスライドは、山縣有朋と福澤諭吉が、維新初期において、それぞれ、爾後の官界と民間の島津斉彬コンセンサス信奉者の理念型的存在・・前者が官界における軍事力の整備・維持、後者が民間におけるアジア主義の鼓吹・普及、という役割を担う・・になった、ということを御理解いただくためのものです。
 それは、同時に、山縣が長州閥の総帥になったという俗説・・その前提として、戦前、長きにわたって、薩長閥間で対立があっただの、薩長閥対その他の藩関係者達の間で対立があっただの、といった俗説・・が誤りであることを示すとともに、福澤を日本を欧米化させるという意味での日本の近代化を提唱した偉大な先駆者と見る丸山眞男の俗説
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja/72/Special_Issue/72_209/_pdf/-char/ja
もまた誤りである、ということを示すためのものでもあります。
 まず、スライドの左側の山縣ですが、要するに、彼は、一貫して、本籍長州藩、現住所薩摩藩、的な人間であったということです。
 次に、スライドの右側の福澤ですが、スライド#4のところでご説明したように、彼の出身の中津藩が、島津斉彬と瓜二つのような趣味嗜好を持つ大叔父が養子として送り込まれて同藩の藩主となった時点から、薩摩藩の支藩のような存在になった、ということを念頭に置けば、私の唱える、福澤・薩摩藩スパイ説も、すんなり腑に落ちるのではないでしょうか。

〇スライド#6の解説

 このスライドは、杉山元が、1931年から1945年までのいわゆる15年戦争の間、陸軍を取り仕切り、ひいては、日本政府を取り仕切ったことを体感していただくためのものです。
 彼が、ほぼ一貫して陸軍の最重要ポストないしそれに準ずるポストに座り続けたこと、かつまた、途中から首相の大部分に彼の協力者が就いていたこと、が分かりますよね。
 しかも、彼がそれらのポストに就いていた時に、重大な出来事が必ず起こっています。
 それらの出来事は、ことごとく、杉山が首謀者として引き起こしたか、知っていて止めなかったものである、と私は見ているのです。
 まずは、この壮大な物語の「前史」から始めましょう。
 杉山が、この物語のいわば脚本・・私はそれを「杉山構想」と名付けています・・を書いたのは、彼が、陸軍省の当時の中枢課であって、陸軍ひいては政府に関する全ての重要情報が集まる、軍事課長(1923年~25年)の時
https://sakurataro.org/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 ※
ではないか、と、私は想像しています。
 そして、軍事課長就任の前に、思想家の大川周明と示し合わせて、内大臣の牧野伸顕に皇居内に作ってもらってあったところの、社会教育研究所(後に大学寮へ改称)に、大川らに続いて杉山も出講し、アジア主義を陸海軍の若手将校達に注入すると共に、彼らの中から、杉山構想の手駒(鉄砲玉を含む)として使えそうな者達をリクルートするのです。(コラム#10427)
 この軍事課長の時或いは既にそれ以前に、当時商工官僚であった木戸幸一との縁を通じて、杉山は商工省に日本型経済体制構築研究を働きかけた、とも私は睨んでいます。
 また、杉山が次官になるすぐ前の軍務局長の時に、商工省の外局として、日本型経済体制構築の端緒となるところの、臨時産業合理局の設置が行われます
https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0090-0010-0040-0030-0050.html
が、これも杉山の差し金だった可能性が大です。
 (1930年に、(軍務局長時代の杉山が恐らくは牧野内大臣と話を付けた上で、)木戸の友人の近衛文麿の推薦で木戸は内大臣府秘書官長に就任しますが、私見では、それは、杉山が宮中にスパイとして送り込んだものであって、その後、1937年から、これも私見では杉山の意向で政治家に転身し、杉山構想の一環たる、日本型社会体制と日本型政治体制の確立、に携わり、再び1940年から、今度は、内大臣として、宮中に戻ります。(コラム#10369))
 その根拠の一つは、杉山が、後の参謀次長の時に、参謀本部から大金を外部に流して日本型経済体制を完成させる研究を行わせていることです。
 さて、これからが、いよいよ「本史」です。
 杉山が、次官の時には、三月事件(1931年3月)・・陸軍挙げてのクーデタ計画だったが、当時の陸相の宇垣一成が日和って未遂に終わった・・が起こり、満州事変が勃発(1931年9月。柳条湖事件)し、参謀次長・・当時の閑院宮参謀総長はお飾りだったので次長は実質的な参謀総長・・の時には(起きることが彼には分かっていたけれど止めなかったところの)二・二六事件(1936年2月)が起こり、陸軍大臣の時には、陸軍が提案して厚生省・・日本型社会体制を構築することとなる・・が設立(1938年1月)され、日中戦争が勃発(1937年7月。盧溝橋事件)するとともに、それが本格化(1937年8月。第二次上海事件)し、参謀総長の時には、日本型政治体制であるところの大政翼賛会が設立(1940年10月)され、「昭和三十五年総人口一億を目標とす」る「人口政策確立要綱」(1941年1月)が閣議決定され、
http://www.res.otemon.ac.jp/~yamamoto/be/BE_law_07.htm
対英のみ開戦がなされないことに確定した(コラム#4506、8414、10007)上で、対米英戦を中心とする大東亜戦争が始まっています(1941年12月)。
 杉山は、たまたま、その場その場に居合わせる巡り合わせだったに過ぎないのでは、という声が聞こえてきそうですね。
 いや、そんなはずはありません。
 軍隊では、戦闘中に指揮官が斃れたら自動的に次の指揮官が決まるように、一般将校全員に序列が付けられており、「平時」においても、皆、序列の上下を意識しているものなのです。
 杉山が、1937年4月に陸軍中将中で序列1位、陸軍全体でも(寺内寿一大将は別として・・どうして別としていいかの説明は省きますが・・事実上3位にになり(コラム#10365)、その後、杉山が1936年11月に大将に昇任した(※)ところ、彼より上位だった西義一大将はそれまでに1936年8月に予備役に編入されており、また、同じく上位だった植田謙吉大将はその後1939年12月に予備役に編入された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%BE%A9%E4%B8%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E7%94%B0%E8%AC%99%E5%90%89
結果、1939年12月の時点で、杉山は、事実上、陸軍序列1位になっています(コラム#10365も参照)。
 振り返れば、1937年に中将で1位になったということは、将来、陸軍大将で、つまりは、陸軍で、1位になることがほぼ確定していた、ということです。
 更に振り返れば、そもそも、杉山が、1921年に大佐に昇格した後、1923年に陸軍省の中枢課(当時)であった軍事課の課長になった(※)時点で杉山は陸士同期の序列1位になり将来陸軍の序列1位になる有力候補になった、と思われるのであって、1925年に少将に昇格した後、1928年に陸軍省の中枢局である軍務局の局長になった(※)時点でその可能性が飛躍的に高まり、1930年に陸軍次官に昇格(同時に中将に昇格)した(※)時点では、ほぼ確定したはずです。
 そうであった以上、1930年以降は、杉山が陸軍のどこで何をしていようと、彼の階級以下の陸軍の将校達は、誰であれ、杉山からの指示ないし依頼に基本的に従うようになったはずなのです。
 そんな、杉山が、その後、ほぼ一貫して陸軍の最重要ポストないしそれに準ずるポストに就き続けたわけであり、そういうポストに就いていた時の杉山からの指示ないし依頼には、彼の階級以下の陸軍の将校達は、誰であれ、無条件で従ったはずなのです。
 そんな権力を杉山が振るわなかったとは考えにくく、一貫して振るい続けた、と考える方が自然でしょう。
 皇族将官ならいざ知らず、将官が権力を振るわなければ、つまりは、仕事をしなければ、たちまち淘汰されてしまったはずだからです。
 付言しておきますが、杉山が(それまでなかったポストであるところの)首都を含む内地の東半分を所管する第一総軍司令官であった時も、彼は陸軍の最重要ポストに就いていたと言えます。
 というのは、当時の陸相の阿南惟幾が杉山の協力者であったことはもとよりですが、内地の西半分を所管する第二総軍司令官の畑俊六は、(杉山の協力者であった小磯國昭同様、)杉山の陸士・陸大同期であって、杉山の協力者とまでは言えないものの、杉山のおかげで陸相になり、また、(1943年に寺内寿一と同日付で元帥になった)杉山より1年遅れてですが元帥にもしてもらっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%B8%A5_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
杉山が決めればそれに従ったはずの人物であって、杉山が、事実上、内地全体を占領下に置いていたようなものだからです。
 その杉山は、構想の最後の仕上げとばかりに、蒋介石政権からの事実上降伏申し出を政府に握り潰させ、ソ連の対日参戦意思及び参戦時期を知っていてあえて陸軍外へそれを伝えさせず、かつ、米軍による日本占領をほぼ確実化した上で、原爆投下があったため、予定より若干早い段階で終戦を決断し、日本に終戦をもたらしたのです。

〇スライド#7の解説

 簡単に左側から説明します。
 皆さんには、日中戦争・大東亜戦争は日本の勝利だった、という認識に、ぜひとも、まず、立っていただきたいのです。
 ベトナム戦争は、一方的に北ベトナム側が(天文学的な)人的物的被害を被り、しかも終戦の条件は、(単純化して言えば)ベトナム戦争が始まる前の状態に戻すというものだったことから、北ベトナム側が、形の上では敗北したのですが、終戦後、まもなく、北ベトナム側は、戦争目的であったところの、南ベトナムの吸収合併に成功するのですから、彼らが実質的には勝利したわけです。
 このことに異を唱える人は殆どいないのではないでしょうか。
 それと同じ理屈で行けば、結論は自ずから明らかでしょう。
 日本は、自由貿易実現、対露(ソ)抑止完成、アジア解放(必然化)、(中国再生必然化、すなわち、)国民党打倒(共産党支援)、の4つからなる戦争目的をことごとく達成したのですから、勝利したのです。
 (どちらも、米国を中心とする、圧倒的に優勢な相手に勝利した訳であり、組織的・計画的に戦わなければ、勝利を収めることなどありえません。
 なお、この二つの戦争は、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)の前段とも言える(北ベトナムがフランスからの独立を達成した)第一次インドシナ戦争のことを考えれば、時期的に連動しているだけでなく、第一次インドシナ戦争はベトナムに自主的に残った日本兵達がベトナム軍を教育錬成した上、事実上、指揮を執って戦われたものである、
https://www.sankei.com/column/news/170228/clm1702280003-n1.html
という意味でも連動しています。)
 それどころか、杉山元らは、日本が勝利した後のことまで布石を打ち、その結果も予見していた、と私は見ています。
 アジア・アフリカの植民地の独立は、アジア解放が必然化されたことの論理的帰結であり、改めて説明する必要はありますまい。
 (日本型経済体制の構築、日本型社会体制の構築、日本型政治体制の構築の順序で行われた)日本型政治経済体制の構築は、戦争遂行のための総動員体制の構築に藉口して、戦後の高度経済成長の基盤を確立するのが目的でなされたとすら見ることができますし、人口増政策に至っては、もっぱら、戦後を見据えた政策であったことは明白でしょう。
 その結果、戦後、速やかに日本の経済大国化が成り、その後、その日本は、少なくとも、(韓国を唯一の例外として、)旧大東亜共栄圏諸国から、模範の国とみなされるになり、今日に至っています。
 また、ロシアについては、米国が全力で対ソ(対露)抑止に取り組むようになった結果、疲弊したロシアが、冷戦に敗北し、崩壊し、衰亡することによって、ロシアの脅威が、基本的に除去されるに至りました。
 そして、国交回復後の日本による中国支援、及び、中国による日本文明総体継受の進展、により、中国もまた経済大国化し、そう遠くない将来、経済力ではもちろん、総合国力でも米国を抜き去る可能性が大になっています。
 また、米国は、杉山らが押し付けたところの、全球的対ソ(対露)抑止体制を維持するための知的・財政的等のあらゆる面におけるImperial overstretch(ポール・ケネディ)の累積の結果、その相対的衰亡が促進され、いまや、トランプを大統領に戴く等を通じ、世界の顰蹙を買うに至っています。

 では、右側です。
 どうして、今まで、杉山構想的なものの存在に誰も気付かなかったのでしょうか。
 外国人のことまであげつらうのは止め、日本人について、その私なりの謎解きをしておきましょう。
 杉山らが、(自分達と毛沢東との提携が露見するのを回避したい、といった目的から、)史料等を破棄・隠蔽した、ということが大きいとは思います。
 (天皇制維持に不都合な史実の隠蔽、陸軍と中国共産党の提携の露見回避、が、その主要目的だったはずです。)
 しかし、犯人にうまく証拠隠滅をされたらお手上げ、というのでは、警察は要らないでしょう。
 ところが、同時代の識者達ですら、軒並みお手上げ状態だったのです。
 開戦時の蔵相の賀屋興宣は、極東「裁判で・・・「軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と語って」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E5%B1%8B%E8%88%88%E5%AE%A3
いますが、これは、賀屋の本心であったかどうか、一応は疑う必要があるものの、私は、本心だと思っています。
 また、近衛文麿は、「1945年(昭和20年)2月14日に、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を奏上し・・・<、その中で、>陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀であるとする反共主義に基づく陰謀論<を>主張している<ところ、この>近衛上奏文の作文には吉田茂・・・が関与し」ています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
 この主張は、実は、元内務官僚で政治家であった三田村武夫の見解の受け売りだったのですが、後に、この見解を盛り込んだ三田村の著書を読んだ岸信介は、痛く感銘を受け、みんながこの本を読むべきだと述べています。(コラム#10042)
 この岸は、「中国の内戦について・・・「支那が中共の天下となれば朝鮮は素より東亜全体の赤化である。」とも述べています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
 つまり、近衛、賀屋、岸、吉田、三田村、は、陸軍のこと、とりわけ杉山らのこと、が、皆目分かっていなかったことが明らかです。
 これは、近衛以下が、共通して軍事素養を持ち合わせていなかったこともさることながら、より根本的には、陸軍の上澄み達に比べ、彼らが、個人的にも、また、彼らの出身母体たる、それぞれ、華族社会、大蔵省、商工省、外務省、内務省、という集団的にも、知力の隔絶があったからだ、というのが私の見解です。
 (なお、海軍の上層部は、軍事素養は身に着けていたと思いたいし、陸軍の上層部に知力でもそれほどの遜色はなかったはずですが、頼りないこと夥しいものがあり、例えば、終戦時に海相であった米内光政は、同僚の阿南惟幾陸相が自裁した時、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
と語っていますが、これは、自分は陸軍が何を考えていたのかさっぱり分からなかったという告白に等しい、と私は思っています。)
 政治学者の丸山眞男は、戦後初期の日本を代表する知識人の一人とされていますが、日本の陸軍の最高幹部達は、ナチスの最高幹部達に比べて、非計画的で非論理的で責任回避的であった、つまりは、矮小であった、という趣旨のことを書いており(コラム#1658)、コメントにも値しません。
 戦前史を論じた、その後の日本の識者達については、以上申し上げたことを踏まえれば、私の言いたいことはお分かりいただけると思います。

〇スライド#8の解説

 杉山構想実現に構想の全体像が分かっていてその実現に力を合わせた人々はそれほど多くはないと思われますが、ここで紹介する14人でもってその大部分をカバーできているのではないか、という気がしています。
 (全体像が分かっていなかった人が含まれている可能性があることをお断りしておきます。)
 ただ、一人一人説明すると時間がいくらあっても足りないので、杉山元と板垣征四郎と阿南惟幾の3人についてだけ最低限の説明を行い、後の人々は触れるだけにとどめ、ご関心に応じ、引用した私のコラムを読んでいただくことにしました。

・杉山元(自裁)    :陸士12期、陸大22期。第二次長州征伐の際に、幕府側で戦い、長州藩との戦いに敗れて散々な目に遭い、戊辰戦争の際には、この戦ったばかりの長州藩のほか、拡大島津家率いるところの、薩摩藩、佐賀藩、と福岡藩、そのほか秋田藩、とともに、(後に藩を挙げて西郷隆盛ファンになる)庄内藩征伐を行ったところの、小倉藩、の地に生まれたことから、杉山は、屈折しつつも熱烈な島津斉彬コンセンサス信奉者になった、と、私は見ています。
 杉山は、1923~25年の軍事課長時代に、島津斉彬コンセンサスの成就を図る杉山構想の骨格を作り、1928年の張作霖爆殺事件の際の田中義一首相の対応を叱責する形での昭和天皇のモード転換示唆(後述)を受け、1926年の蒋介石による北伐開始、及び、同年における英国の親蒋介石政権化(コラム#8628)、1928年の(ヴェルサイユ平和会議時の人種平等宣言非採択下で欧米植民地解放戦争を非合法化したところの)不戦条約締結、及び、ソ連の五カ年計画(経済成長/軍事力強化)開始、等を踏まえ、帝国陸軍を挙げて、杉山構想の前倒し完遂、を推進する決意を固めたのではないか、と、私は、想像しています。(コラム#9902)

・板垣征四郎(刑死)  :陸士16期、陸大28期。私の見立てでは、当時陸軍次官であった杉山元の事実上の指示の下、関東軍高級参謀の時に、(板垣の家の宗旨が日蓮宗で祖父は盛岡藩士族であったこともあり、)関東軍作戦参謀であった石原莞爾・・旧庄内藩に生まれ、幼年学校時代に日蓮宗に影響を受け始め、陸士(21期)卒業後、盛岡藩家老で明治新政府の外交官だった南部次郎よりアジア主義の薫陶を受けた。陸大30期。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE ・・との二人三脚で、満州事変を引き起こしました。
 その後、関東軍司令部付で満州国の執政顧問・奉天特務機関長、欧州出張、満州国軍政部最高顧問(1934年8月~12月)、関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官(1934年12月~1936年3月)、関東軍参謀長(1936年3月~1937年3月)を歴任しており、この間に、失敗に終わったところの、東部内蒙古への勢力拡大を目指した綏遠事件(1936年9~11月)を起こしています。
 そして、支那事変(日中戦争)では第5師団師団長として出征し、平型関等の戦闘では、八路軍との戦いで相当の死傷者を出すことで、帝国陸軍と中国共産党との秘密提携を隠蔽する役割を演じました。
 第一次近衛内閣改造で1938年6月3日、陸相兼対満事務局総裁に就任します。・・・
 平沼内閣でも陸相に留任し、ノモンハン事件では参謀本部の不拡大方針を無視した関東軍の作戦行動を承認しました。
 そして、独ソ不可侵条約成立による平沼内閣倒壊で陸相を退き、支那派遣軍総司令部の初代総参謀長となります。
 とまあ、こういう具合に、板垣は、杉山構想中の、対中国部分の全てを担当したのです。
 彼は、1941年(昭和16年)に大将に昇進したと同時に朝鮮軍司令官となり、1945年(昭和20年)4月には第7方面軍司令官に就任し、シンガポールで終戦を迎えています。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E

・小磯國昭      :(藩主家が島津家と姻戚関係があった)旧新庄藩士の子。陸士12期・陸大22期。1931年の三月事件の時から杉山と行動を共にすることとなる。杉山によって杉山の後任軍務局長、次官に据えられる。また、大戦中に、杉山の意向で東條の後の首相に据えられる。(コラム#10165)

・柳川平助(病死)  :陸士12期・陸大24期。 杉山によって、同期3人で盥回しする形で小磯の次の次官に。杉山の指示で、盧溝橋事件に引き続いて起った第二次上海事変を蒋介石政権の首都南京攻略戦へとエスカレートさせることでもって日中戦争を本格化させるとともに、並行的に(杉山の指示を受け、本件に限らないが、日本人達に罪の意識を植え付けることで戦後の中国に対して協力姿勢を取らせると共に、同じく戦後の中国に日本を責める材料を提供して必要に応じて責めさせることで日中が提携していない印象を世界に与えることを狙い、)南京事件をあえて引き起こした。(コラム#10449)

・東條英樹(刑死)  :陸士17期・陸大27期。杉山の有能なロボット軍事官僚・政治家。杉山の意向で陸相を、更に、先の大戦開戦時の首相を、務めさせられた。(コラム#9902)

・阿南惟幾(これちか)(自裁)  :陸士18期・陸大30期。1937年2月に陸相になっていた杉山
https://sakurataro.org/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
によって、3月に人事局長に任じられ、陸軍等の大東亜戦争終結までの将官級人事長期計画を策定させられた可能性があるところ、爾後、杉山と行動を共にした。
https://sakurataro.org/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81#%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E5%B1%80
 また、杉山が3度目の軍事参議官(1939年9月~1940年10月)、そして参謀総長(~1944年2月)だった間
https://sakurataro.org/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 前掲
の、1939年10月から1941年4月には陸軍次官を務めさせられており、日独伊三国同盟締結に反対を続けた(昭和天皇のお気に入りの)米内光政首相を引きずり下ろした1940年7月の倒閣運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%86%85%E9%96%A3
等をさせられている。
 そして、1945年4月、鈴木貫太郎内閣が成立すると、杉山は、阿南を陸相に就任させ、杉山が決断した時点で、阿南に終戦を促し、阿南はそれに従った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE 全般

・田中静壱(しずいち)(自裁)  :陸士19期・陸大28期。オックスフォードで学び、かつ、米国で駐在武官を務め、杉山構想中の対英米戦の実施に関し杉山を直接輔佐し、最終的には、杉山第1総軍司令官の下で、首都を管轄する司令官を務め、終戦時には陸軍部内の不穏な動きを封じ込めた。(コラム#10123)

・岩畔豪雄(いわくろひでお)   :陸士30期・陸大38期。小磯(つまりは杉山)に可愛がられる。中野学校、及び、(兵器技術研究を行う通称)登戸研究所を設立。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%95%94%E8%B1%AA%E9%9B%84
 軍事課長の時にアジア解放の具体策を策定するとともに、欺騙工作としての日米交渉に携わり、先の大戦劈頭、アジア解放戦の最前線に立った後、インド国民軍設立を手掛けた。(コラム#9902)

・牧野伸顕      :大久保利通の子。東大中退。自ら、勝海舟通奏低音信奉者達の動きに目を光らせる宮中スパイとなり、杉山と共謀して社会教育研究所(大学寮)を設置し、陸海軍若手将校に島津斉彬コンセンサスを注入した。(コラム#10429)

・木戸幸一      :木戸孝允の孫。京大法卒。商工省時代に、縁戚者を通じ、杉山と知り合って感化されたと思われ、日本型経済体制構築に携わり、その後、牧野、杉山の共同謀議によって、牧野の後任の宮中スパイになるが、一度政治家に転じ、その間、日本型社会体制及び日本型政治体制の構築に携わった。(コラム#10377、10379)

・(近衛文麿)(自裁):近衛家/島津家の嫡流。京大法卒。杉山の無能なロボット政治家で、2度(3期)の首相として、杉山構想の全体像を明かされないままその実現に協力したが、最後は杉山に反逆した故、()を付けた。(コラム#9902)

・廣田弘毅(刑死)  :旧福岡藩地域出身。東大法卒。杉山の有能なロボット外務官僚にして政治家。首相、及び、(累次の)外相として、杉山構想実現に協力した。(コラム#10375)

・鈴木貞一      :陸士22期・陸大29期。大学寮の「学生」時代に杉山にリクルートされたと思われ、陸軍時代には、日中戦争開戦後の対中政策、日本型経済体制の完成に関し、及び、企画院総裁として対米英開戦時に、杉山構想実現に重要な役割を果たした。(コラム#10431、10433、10435)

・徳川義親      :松平春嶽の子で尾張徳川家を継いでその藩論に染まったと思われる。東大文(史学)・東大理(植物学)卒。民間のアジア主義実践者として、杉山構想中のアジア解放に積極的に協力。(コラム#9902)

・大川周明      :旧庄内藩地域出身。東大(印度哲学)卒。民間のアジア主義思想家として、杉山構想の民間への普及に精力的に協力。(コラム#9902)

〇スライド#9の解説

 今度は中国の話ですが、まず、19世紀後半からの、中国を根底から作り変えようとした指導者達を一括してお示ししておきましょう。
 下の行からいきますが、洪秀全は中国(当時は清)を米国の原理主義的キリスト教に鼓吹されたカトリック的神政国家とでも形容すべき太平天国に作り変えようとして叛乱を起こしますが、結局、失敗してしまいます。(コラム#4902)
https://en.wikipedia.org/wiki/God_Worshipping_Society
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E6%94%BF%E6%94%BF%E6%B2%BB-82058 
 宋教仁は、孫文らと共に清を打倒して中華民国を作り、イギリス文明の継受を目指しますが、暗殺されてしまいます。(コラム#234)
 孫文は、ナショナリズムを掲げたものの、中国の統一を果たすことなく志半ばで亡くなってしまい(コラム#228、229、230、234)、その後を継ぎ、今度は、ナショナリズムの鬼子である独伊のファシズムの堕落形態とでも形容すべき中華民国を作るべく、ソ連とも提携しつつ、中国の統一に乗り出したために、日本と衝突し、敗北することになります。(コラム#179等)
 欧州の延長であるロシア(ソ連)のマルクス・レーニン主義に基づく中国を、ソ連の指導の下で作ろうとしたのが、方や中国共産党の最高指導者になった李立三であり、方や名目上の最高指導者となった王明ですが、前者は毛沢東との権力闘争に敗れ、後者は実権を毛沢東に奪われたままで終わります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%AB%8B%E4%B8%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%98%8E
 上の行は、日本大好き人間達のオンパレードです。
 黄遵憲(こうじゅんけん)は、清時代に、日本や米国に赴任した中国の外交官であり、日本文明総体継受を初めて唱えた中国の識者です。(コラム#6789)
 汪兆銘は、日中戦争から先の大戦の時期に、南京を首都とする親日政権を日本の庇護の下で作った、日本で教育を受けたマルクス主義者であり、彼が杉山構想を知っていた・・より限定的に言えば、帝国陸軍上層部と毛沢東が連携していたことを知っていた・・かどうかは不明ですが、後世の歴史においては、中国において初めて日本文明総体継受に現実に着手した人物という評価を受けることになると思われます。(コラム#234)
 毛沢東、鄧小平、そして習近平、つまりは、中国共産党、については、これから説明します。 

スライド#10の解説

 このスライドは、スライド#9での話を受け、中国共産党の日本文明総体継受戦略の紹介を行うことを主たる目的としていますが、中国共産党と金王朝とを比較する形で、北朝鮮にも簡単に触れています。
 まずは、中国共産党、の日本文明総体継受戦略についてです。
 毛沢東(1893~1976年)は、小さい時から、日本の明治維新や日露戦争勝利に熱狂し、嘉納治五郎に心酔するといった具合に、日本の弥生性に目覚めるところから出発したところの、日本大好き人間であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1 ★
恐らく、最初から、中国の日本化、すなわち、私の言葉で言うところの、日本文明総体継受・・要は、中国に弥生性と縄文性を移植すること・・、を決意し、その目的追求のために生涯を捧げる決意を抱いていた、と、私は見ています。
 その毛沢東は、北京大の図書館司書だった時(1918~19年)、どちらも日本留学中にマルクス主義と邂逅したところの、同大教授の陳独秀と李大釗からマルクス主義の何たるかを教わった(★)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A ☆
のですが、この3人は、いずれも、マルクス主義を、日本社会の特徴である人間主義、つまりは縄文性、への弥生的手段をもってする回帰、を訴える思想である、と受け止めていたに違いない、と私は睨んでいます。
 (マルクス主義哲学者の廣松渉についてのコラム群(コラム#8010以下)参照。)
 で、毛らは、1921年に中国共産党を、東大留学経験者の中国人の上海の自宅で結成するのですが、同党は、その時から、(マルクス主義をロシアのモンゴルの軛症候群に基づく領土・勢力圏拡大衝動の新たな隠れ蓑に使うと言う意味での)マルクス主義の堕落形態たるマルクス・レーニン主義を掲げるところの、ソ連(ロシア共産党/コミンテルン)の、ヒト、カネを通じた統制下に置かれることになり、1922年には、毛らの意に反し、ナショナリズムを掲げる孫文の中国国民党・・レーニンは、その丸ごとマルクス・レーニン主義党(ソ連の傀儡)化を目論んでいた・・との合作を強いられ、かつまた、党自体も、毛らに代わってソ連留学組が牛耳るところになってしまいます。(史実は☆と下掲による)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88
 やがて、国民党は、蒋介石の下で腐敗したファシスト政党に堕していくのですが、レーニン死後、ソ連の最高権力者になったスターリンもまた、蒋介石の反共産党姿勢にもかかわらず、(正しくも)毛への不信もあって、国民党重視方針を引き続き堅持しました。
 さて、人民解放軍の創設は、共産党が国民党と第一次内戦状態に入った1927年とされているところ、
https://kotobank.jp/word/%E5%BB%BA%E8%BB%8D%E7%AF%80-1696029
それは、国民党軍から寝返った部隊の寄せ集めに過ぎず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%98%8C%E8%9C%82%E8%B5%B7
それが、自前の軍らしきものになったのは、翌1928年、中国共産党の根拠地の一つで合流した、毛と(ソ連で軍事を学んできた)朱徳(1885~1976年)、の手によってです。
 その折、毛は、朱徳と協力して策定されたというふれこみの、徹底したゲリラ戦術を旨とする基本戦略、「十六字訣」を明らかにしています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%BE%B3 ※
http://yagibamu.seesaa.net/article/449378363.html
 しかし、この「十六字訣」自体は、国民党を打倒するまでの過程における、共産党軍の運用に係る自由度を最大限確保するための政治的作文であった、と私は見ています。
 (実際、日本の「敗戦」後に起ったところの、「同等」の敵が相手だった国共内戦ではもちろん、その後の「圧倒的優位」の敵が相手だった朝鮮戦争でも、人民解放軍はゲリラ戦術など、全くと言っていいほど用いていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%86%85%E6%88%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89 )
 それはさておき、ここに、毛は、中国共産党における、弥生性を象徴する存在、としての第一歩を踏み出すことになったわけです。
 更に重要なのが、この共産党軍の訓育に藉口する形で、毛が、自らを、中国における、縄文性を代表する存在に仕立て上げたことです。
 すなわち、毛は、民衆のものは一切盗るな、売買はごまかしなくやれ、といった、人間主義の初歩的な規範を盛り込んだ、「三大紀律六項注意」(後に「三大紀律八項注意」へ)を制定したのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A4%A7%E7%B4%80%E5%BE%8B%E5%85%AB%E9%A0%85%E6%B3%A8%E6%84%8F
 ここに、毛は、中国共産党ならぬ、中国における、縄文性を象徴する存在、としての第一歩も踏み出すことになったわけです。
 なお、これら、「十六字訣」と「三大紀律六項注意」の策制定は、国民党軍とは全く異った、軍隊を共産党が持つに至った、ということを内外に宣明する意義もあったことでしょう。
 そんな毛が、7年後の1935年に、中国共産党の事実上の最高指導者になることに成功するのですが、それは、彼が、同党の軍事上の最高指導者にのし上がることを通じてでした。(★、※)
 (共産党軍の創建、整備等に関し、毛沢東の最大の協力者であったところの、軍事のプロで政治に余り関心がない朱徳への毛の感謝の念は大きく、毛沢東の初期からの党内協力者達が、その後、ことごとく失権させられ、そのほんの一部しか復権できなかったというのに、朱徳は、一度も完全に失権させられることがありませんでした。(※))
 ここまでの過程で毛の念頭にあったのは、かつての日本における、(縄文的弥生主義者たる)武家の棟梁による国家権力の掌握、すなわち、幕府体制、だったのではないでしょうか。
 (1949年に中華人民共和国が建国されると、一旦は、共産党軍は国軍になるけれど、1954年には再び党軍に戻り、党軍事委員会主席が基本的に中国の最高権力者という位置づけになり(※)、ここに、文字通り、中国は幕府的な政権下に置かれて現在に至っています。
 これは、日本が、中国と違って武(弥生性)の風化を免れた秘密を、毛が、幕府制に求めたからだろう、と私は見ています。)
 そんな毛沢東、と、杉山元ら、が、魚心あれば水心で連携するに至らない方がおかしい、というものでしょう。
 私は、早くも、1935年中に、毛と、当時、参謀次長であった杉山との間で、秘密裏に連携合意が取り交わされた可能性すらある、と想像しています。
 この毛と当時陸相であった杉山が、共謀して引き起こした、と、私見ているのが、1937年7月の盧溝橋事件です。
 同年8月に戦火が上海に飛び火する(第二次上海事件)と、前年の西安事件にもかかわらず、国共間の合作交渉が難渋していたところ、急遽9月に第二次国共合作が正式に成立する運びとなり、共産党軍は、国民党軍の隷下に組み込まれ、国民党政府から金銭的支援を受けるようになります。
 その一方で、この頃から、上海で、毛と杉山らは、それぞれの常駐工作員を通じての恒常的接触態勢を確立し、やがて、共産党支配地域と日本軍支配地域との間で交易関係も確立します。(コラム#10303等)
 そして、同じ9月中に、毛が直ちに起こしたのが、河北省における、(共産党軍の一つの)八路軍(指揮官は林彪)と日本軍の平型関の戦いです。
 これは、共産党軍が日本軍と果敢に戦った、という宣伝効果を狙った、毛によるところの、いわば杉山との合作のやらせでしたが、「戦果」がさしてなかった割に八路軍の被害が大きかったものの、そういう意味では大成功でした。
 それ以降、共産軍は、1940年8~12月にもう一度だけ戦った(百団大戦。於山西省・河北省。今度も八路軍)ことを除けば、日本軍と戦闘を一切行わず、毛は、国民党軍が日本軍によって痛めつけられ弱体化して行くのを拍手しながら高みの見物を続けることになるのです。
 この百団大戦については、3年間も戦わなかった共産党軍に対する国民党等からの批判が高まっていたところに、同年3月、(これも実は杉山らと毛の共謀の産物であるところの、)日本の「傀儡」の汪兆銘政権成立(コラム#10275)があったこともあり、下からの突き上げを食った毛がやむを得ず実施させたものですが、本気で戦い、日本軍にもそこそこの被害を与えた上、自軍には大損害をもたらしたため、指揮官だった彭徳懐は、後々に至るまで、毛による陰湿な虐めの対象になります(コラム#8628、10277等)。
 この毛が、中華人民共和国が成立してからかなり経った1963年3月に「雷鋒同志に学ぼう」キャンペーンを始めます。
 これは、共産党軍、ひいては党員、以外の人民の人間主義化も図る必要があると考えたからであり、それは、毛が文化大革命を引き起こした目的の一つでもありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B7%E9%8B%92
 (この雷鋒自身、まことにもって、初歩的な人間主義者でした。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Poplar/4390/changsha/sanpo/leifeng.html )
 毛沢東の話が長くなったので、後は、ごくかいつまんだ説明にとどめます。
 毛の死後、鄧小平は、打って変わって、今度は、日本の経済援助も活用しつつ、改革開放というスローガンの下、日本文明の現在の日本型政治経済体制中の主として日本型経済体制の継受に乗り出し、その結果、中国の高度経済成長がもたらされ、鄧の死後ですが、中国は、世界第二位の経済大国になりました。

 江沢民、胡錦涛は飛ばしますが、習近平は、共産党内については党員達の汚職の摘発に全力を挙げるとともに、一般人民達に対しては日本へ観光等に赴かせるキャンペーンを始め、人民全体を本格的に人間主義化させる(縄文性を根付かせる)努力を行ってきています。
 (彼の、次期国家主席含みの国家副主席時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%89%AF%E4%B8%BB%E5%B8%AD
に、全人代(国会)の機関紙(2011.11.3)が毛沢東の雷鋒キャンペーンを事実上批判した「日本には「雷鋒」のような国民の鏡とすべき善人は存在せず、交通事故の負傷者を放置するなどといった奇妙な現象もありえないのである」という記事を載せた
japanese.china.org.cn/jp/txt/2011-11/03/content_23808171.htm
のは、その前兆でした。)
 その習は、鄧小平が定めたところの、国家主席の10年任期制を撤廃しましたが、これは、日本文明における天皇制の継受への着手である可能性があります。
 なお、日本型政治経済体制中の日本型政治体制の継受については、共産党当局は天安門事件で懲りたため、中央レベルでは未だに選挙制の導入すらなされておらず、習にとって、今後の課題になっています。
 習による対日軍事攻勢の話は、ここでは繰り返しませんが、事実上、中国の支援の下で行われたところの、北朝鮮の核武装は、中国の対日軍事攻勢の一環でもあることを銘記すべきでしょう。 

 その上で、北朝鮮についてです。
 北朝鮮については、実態がよく分からないこともあり、私の今までの話と違って、これから述べるものは、単なる仮説でしかないことをお断りしておきます。
 私は、北朝鮮の方が、一貫して、韓国に比べて、親日的であり続けている、と思っています。
 例えば、韓国ではいまだに全面解禁がなされていない日本語歌詞、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E8%A1%86%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%B5%81%E5%85%A5%E5%88%B6%E9%99%90
が、北朝鮮では禁止されたことなどありません。
 実際、Youtubeで、北朝鮮の歌手が日本の歌謡曲を日本語で歌っている動画など、いくらでも見つけることができます。
 それどころか、金正日や北朝鮮の将官達が日本の軍歌を好んで歌っていたという証言まであります。
http://freezzaa.com/archives/1701
 その金正日は、嫡子を生むことを期待して(?)4番目の妻に迎えたのは(金正恩の母親となる)元在日の高英姫(コ・ヨンヒ)でしたし、日本人の料理人の藤本健二氏をそばに置き、金正恩らとも交流させました。
 また、中国人に成りすますのなら容易だというのに、また、日本人に成りすますとしても、日本から「帰還」した元在日を活用しようとすらせず、「生粋の」日本人を拉致までして日本人に成りすます予定のスパイに日本人教育を施しました。
 (例えば、大韓航空機爆破事件の下手人の一人の金賢姫(キム・ヒョンヒ)は拉致された日本人の田口八重子から日本人教育を受けています。)
 こういったことから、金日成と帝国陸軍が密かに通じていた、という可能性すら私はあると思っています。
 帝国陸軍と中国共産党やベトミン(共産主義者達が中心)との関係を思い起こしてください。
 (「・・・日本軍がフランスの植民地だったベトナムに進駐したのは、1940年である<が、1945年の>終戦時約8万人いた軍人<のうち、>約600人が留まった。ホー・チ・ミンらが率いる「ベトナム独立同盟」(ベトミン)に参加するためだ。再植民地化をもくろむフランスとの戦いで、約半数が亡くなったとされる。・・・旧日本兵は、各地の士官学校の教官となって戦争の知識を教えた。54年にベトナムがフランスを破った「ディエンビエンフーの戦い」では、司令官の参謀の半分を日本兵が占めていた。・・・」
http://www.sankei.com/column/news/170228/clm1702280003-n1.html )  

 仮に帝国陸軍との関係はなかったとしても、日本が大好きで日本文明総体継受を目指したいう点では、金日成らと中国共産党は同じで、どういう順序で何を継受するかが違っているだけだ、といった見方だってできるのかもしれません。
 すなわち、どちらも、日本史を少し前の時点から反復しようとしたのであって、中国共産党は幕府制の継受から、北朝鮮は天皇制の継受から、始めたのではないか、また、中国は、その後、人間主義、次いで日本型経済体制、の継受にとりかかり、ごく最近にどうやら天皇制の継受にとりかかったらしいのに対し、北朝鮮は、その後、幕府制を継受し、これから日本型経済体制の継受を始めようとしているのではないか、という見方です。
 そういう目で、北朝鮮の主体思想や先軍政治を見直してみると、どちらも、下掲のように、全く新たな相貌を呈して来るのが面白いところです。↓

 主体思想:金日成(1955年~)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E4%BD%93%E6%80%9D%E6%83%B3
⇒タテマエ上は、ソ連のとも中国のとも異なる、マルクスレーニン主義を追求するという決意表明だが、ホンネは、中国と同様、日本文明総体継受を図るけれども、中国とは、異なった道筋、優先順位を採用する、という決意表明。
 先軍政治:金正日(1997年~)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E8%BB%8D%E6%94%BF%E6%B2%BB
⇒日本のかつての幕府制を継受した中国の党軍制にヒントを得て、党軍制をより純化する・・軍そのものを党化する・・形で、日本のかつての幕府制を継受したもの。
 (ちなみに、北朝鮮の独裁政党であるはずの朝鮮労働党は名存実亡状態にある。↓
 「かつて、原則として5年に1度開催することが党規約で定められていたが、実際に5年間隔で開催されたのは第3回大会(1956年)と第4回大会(1961年)の間のみで、開催間隔の取り決めは有名無実化していた。そのため、第6回大会(1980年)から30年後に開かれた第3次党代表者会議(2010年)において、党大会の開催間隔に関する条項は党規約から削除されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%85%9A )
 なお、金正恩時代になってから、党軍制を中国のそれに近づける動きが見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%BB%8D

 そして、この北朝鮮が、金正恩下で、ついに日本型経済体制の継受を開始した兆候が見られるところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%8F%B2

〇スライド#11

 中米日のほかはインドが少し顔を出しているだけのチャートが、しかも、その中心に日本が鎮座しているようなチャートが、どうして「世界の今後の展望」のチャートたりうるのか、ですが、今までの話からお分かりいただいと期待しているのですが戦後世界を作ったのは日本だったからであり、また、米国からの「独立」さえ果たせば、日本は、名実共に世界の模範の国になるからです。
 亡くなられた昭和天皇同様、もうじき上皇になられる今上天皇は、間違いなくそうお考えである、と私は拝察しています。
 というのも、今上天皇は、今年の2月24日付の在位30年に係るおことばの中で、「私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。」
https://www.sankei.com/life/news/190224/lif1902240046-n1.html
とお述べになられたところ、これは、人間主義を基軸とする日本文明を礼賛されたものであろう、というのが第一点です。
 そして、(昭和天皇もそうでしたが、)今上天皇が、対米見せ金としての軍隊もどきの自衛隊を一度も公式訪問されず、(昭和天皇が首相が公式参拝を躊躇するようになってから靖国神社を公式参拝をされなくなったところ、)靖国神社も一度も公式参拝されなかったこと、つまりは、日本の再軍備/「独立」を訴えて来られた、というのが第二点です。
 昭和天皇が、戦後の自民党を中心とする歴代政府が軍事を軽視し、そのことと相俟って米国の属国たる体制を維持してきたことに対し、拒絶姿勢を示されておられたところ、今上天皇もそれに倣って来られた、ということです。
 しかも、今上天皇は、この拒絶姿勢を一層強く表明すべく、(先の大戦は日本にとって正戦だったとお考えなのでしょう、)基本的に旧大日本帝国臣民戦没者達だけを対象にした、度重なる慰霊の旅を敢行されたものの、なお、政府の態度に変化が見られないことに業を煮やされ、2016年7月13日、政府に相談することなく、退位のご意向を漏らして報道させ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81
る形で退位することとされた、と私は受け止めています。
 上出のおことばの中で、「我が国<は>、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められている」、とおっしゃったのは、今上天皇が、明確な形で、日本の、縄文モードからのモード転換の必要性を示唆されたもの、と私は受け止めています。

 それだけではありません。
 そう遠くない将来、ほぼ間違いなく国力が世界一になるであろう、中国の当局もまた、そう考えているのです。
 
、第一点たる日本文明礼賛に関しては、中国当局は、2012年初め頃(コラム#5299)から、中国国内向けに日本礼賛キャンペーンを開始することでもって事実上告白し、爾来、連日、このキャンペーンを続けてきています。

 (中国以外の国々ではどうでしょうか。
 日本人の識者達でそう思っている人は必ずしも多くなさそうですが、最近、欧米のランキングで日本をよい国のトップないしトップに準ずる国とするものが結構出てきています。
 私自身は、かねてから、日本人の平均寿命が事実上世界一であることがその端的な証左である、としてきたところですが、最近、同じような趣旨ながら、より精緻な、日本の高齢者の健康度(加齢による身体的負担の低さ)が世界一である、とするランキングが英米系医学雑誌で公表されたばかりです。
http://www.healthdata.org/news-release/what-age-do-you-feel-65
 また、米国での世界最高の国ランキングで、日本はスイスに次ぐ2位とされたところです。
 (9つの指標(冒険、市民権、文化的影響、企業家精神、歴史遺産、経済成長、ビジネス、国家の力、生活の質、をもとにランク付けしたもの。)
https://news.infoseek.co.jp/article/recordchina_RC_682176/ (コラム#10332)
 更にまた、英国での世界で最も賢い頭がいい国・地域ランキングで、日本が1位、スイス2位ともされたところでもあります。
 (3つの指標(ノーベル賞受賞者数、人びとの平均知能指数(IQ)、小学生の学習成績)、をもとにラン付けしたもの。)
http://news.searchina.net/id/1674648?page=1 (コラム#10316))

 では、そんな中国当局が、どうして、江沢民時代の少し前頃から、反日歴史教育を国民に対して積極的に施してきたのでしょうか。
 それは、毛沢東が中国共産党の実権を握った時からというもの、中国共産党が日本を模範とし、日本文明総体継受を追求してきたところ、そのことを欧米諸国やロシアに依然として気付かれないようにすべく、前述の杉山による布石を活用した、というだけのことなのです。
 また、第二点たる日本の再軍備/「独立」の訴えに関しても、中国当局は、習近平時代に入ってから、これまたつい最近まで、尖閣等で軍事攻勢をかける形で行ったところです。
 具体的に申し上げれば、かねてより、北朝鮮の核武装を事実上奨励してきた中国は、2010年10月18日に習近平が党中央軍事委員会副主席に選出されるや、米国や日本との対決姿勢を強め始めました。
 (その後、習近平は、2012年11月15日から中国共産党中央委員会総書記、及び、中国共産党中央軍事委員会主席、2013年3月14日から中華人民共和国主席、に就任し、現在に至っています。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3 
 そして、2011年2月末から南シナ海実効支配強化を開始し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B2%99%E8%AB%B8%E5%B3%B6
更に、2012年7月13日、中国当局は、人民日報を通して、尖閣諸島をめぐる武力行使を示唆した上で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C
2012年9月の日本の野田政権による尖閣諸島国有化に藉口し、中国の国家海洋局の監視船等の公船が尖閣諸島への領海侵犯を高頻度で繰り返すとともに、中国政府機関の航空機が領空侵犯を繰り返し始めました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6 )
 これについては、上述したような韜晦目的などでは全くなく、日本が再軍備をしようとしない、つまりは、日本が米国から独立しようとしない、ことに、習近平が痺れを切らしたからである、というのが私の見方です。
 というのも、今でも、人民解放軍は、装備面ではシステム的な総合力において、人員面では練度において、自衛隊に及ばないこともあり、偶発的戦闘が発生しかねない、対日軍事攻勢は、中国側にとって大変なリスク・・偶発的戦闘が発生すれば一方的に撃墜等をされかねない・・を伴うというのに、かつ、このことを、江沢民や胡錦涛に比べるとキャリア的に遥かに軍事に通暁している習近平が理解しているはずなのに、あえて、そんなリスクを冒すのには、余程の理由があると見るべきだからです。
 それでは、どうして、中国当局は、日本に再軍備/「独立」して欲しいのでしょうか?
 中国文明における人々のホンネは墨家の思想である、という話を前回しましたが、その思想の基本的な属性の一つは軍事の軽視であり、中国は、このところ懸命に日本文明への乗り換え・・日本文明総体継受・・に努めてきたとはいえ、未だに、人間主義(縄文性)もさることながら軍事的センス(弥生性)を十分身に着けてるには至っていないことから、今後の欧米やロシアに対する軍事的抑止に不安があり、日本を名実ともに模範の国にした上で、その「独立」日本と軍事的な協力関係を取り結びたいのでしょう。
 ところが、そんなところへ、日本の安倍首相が、日本の再軍備/「独立」を永久に不可能にしかねない改憲構想をぶち上げ、次いで、トランプが、2016年12月に、次期大統領に当選し、その後、中国の国力の米国越えを阻止すべく、経済熱戦・軍事冷戦を吹っかけてきました。
 そこで、習近平は、緊急避難的に、対日軍事攻勢を一時中止するとともに、露骨なまでに日本に対して微笑外交を繰り広げてきているわけです。

 で、いよいよトランプです。
 彼の戦略の眼目は、基本的にですが、先の大戦後、「勝者」の日本が「敗者」の米国に押し付けた体制・・一、解放され復興するアジア 二、自由貿易体制 三、全球的対露抑止体制・・からの離脱なのであり、米国にとってのデフォルトの体制への回帰なのです。
 二から申し上げれば、米国は伝統的に保護貿易主義でした・・南北戦争は保護貿易主義の北部と自由貿易主義の南部との争いという面がありました・・し、三については、米国は自国の裏庭である南アメリカだけをもっぱら勢力圏とするモンロー主義を旨としてきたところです。
 トランプの大統領選挙中の、「在日米軍撤退の可能性」や「(日本が)核兵器を独自に保有することを否定しない」といった発言
https://biz-journal.jp/2016/11/post_17141_3.html 
は、彼の本心であり、トランプ流モンロー主義の論理的帰結の一つであるわけですが、期せずして、ここに、今上天皇のご意向に沿った形で、日本再武装を目指す、中・米による同床異夢的日本包囲網が成立したことになります。 
 なお、「基本的にですが」と申し上げたのは、一に関しては、米国の最大の敵は、20世紀中頃以降こそ、一時的に日本、その後、かなり長期間にわたってロシアであったけれど、それまでは、独立の経緯もあり、一貫して英国であった・・カナダも拡大英国の一環です・・ことから、大英帝国の解体、すなわち、自国への全球的覇権国の地位の移転、を実現してくれるところの、アジア解放までであればそれに賛成であったという経緯があるけれど、その結果として手に入れた全球的覇権国の座に綿々としていること、と、その生来的な人種主義、から、米国は、圧倒的な人口を擁するところの、アジアの復興は妨げたいと思っているからです。
 インドについては、中国と対比する形で、或いはよりミクロ的に、仏教、と、陽明学とを対比するといった形で、同国が日本文明総体継受に乗り出すかどうか、皆さんご自身で考えてみてください。 
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太田述正コラム#10449(2019.3.23)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その24)>

→非公開