太田述正コラム#10299(2019.1.7)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その27)>(2019.3.29公開)

 「<ついに、1941年>7月25日、アメリカは在米日本資産を凍結し、イギリスやオランダもこれに続いた。
 7月26日、ローズベルトは対日経済制裁法案を発表し、8月1日、対日石油輸出を全面的に禁止した。・・・
 これらの政策により、英米との開戦を望まなかった近衛内閣はつぶれ、代わって登場した東条内閣は<対米英開戦を伴うところの、>南進政策を取るようになった。

⇒私見では、「英米との開戦を望まなかった昭和天皇も折れ」、が正しいわけですが・・。
 この日がやっと来たことを、杉山らと毛沢東らはどれほど喜んだことでしょうか。
 ちなみに、汪兆銘は、「日本の国力では英米に対抗できないとの判断から開戦には反対していたが・・・1941年・・・12月8日、太平洋戦争が始ま<ると、>・・・事前に日本の開戦決意を知らされて<いなかった>・・・汪は・・・「和平」の実現がますます遠のいたことに衝撃を受けたという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98
有様であり、この話だけでも、帝国陸軍が、毛とは違って、汪を仲間などとは考えていなかったことが窺えるというものです。(太田)

 もちろん、アメリカの参戦は中国の抗日の一助となった。

⇒そうではなく、とっくの昔に蒋介石政権の命運は尽きていた、換言すれば、「抗日」は事実上終わっていた、にもかかわらず、帝国陸軍と中共が、同政権にあえてとどめを刺さなかったのは、米英或いはソの危機意識を募らせ、とりわけ、米国をして、日本に対する事実上の戦争行為であるところの、経済制裁を行わせたかったからなのです。(太田)
 
 しかし、アメリカの指導者は参戦後、世界革命を進めるソ連の野心を見抜けず、米ソが衝突する冷戦の局面を予見できず、一貫してソ連を友人とし、ソ連に大量の援助を供与した。
 
⇒対英開戦だけで、石油等の確保は可能であったし、アジア解放も可能であったにもかかわらず、杉山らは、だからこそ、あえて対米開戦を行い、軍事的には敗北することで、日本の米国による占領、ひいては、米軍の駐留の恒久化、による対ソ抑止の確立、を追求した、と、私はこのところ、主張しているわけです。
 付け加えれば、ここで初めて記しますが、毛沢東が、1950年に始まった朝鮮戦争に、党内の反対論を押し切って中共軍を介入させたのも、単に、中共軍に最先端の軍隊との実戦経験を積ませる、また、ソ連に恩を売って核技術等の援助をせしめる目的(コラム#省略)だけではなく、この杉山の戦略の完遂を目指したものであった、すなわち、米軍の韓国への再駐留、そして、その駐留の恒久化、による対ソ抑止の確立、を追求したものであった、と解することができるのではないでしょうか。(太田) 

 また、・・・ヤルタで、ソ連の対日参戦を獲得するのと引き換えに中華民族の利益を売り渡し、それが(戦後)中共の東北進出をもたらす結果となった。
 またそのことは、毛沢東の軍隊が中国の大地を席捲する好機をもたらした。・・・」(169~170)

⇒毛沢東、すなわち、中共、が、米国を篭絡できたのは、(米国自身は全く気付いていなかったけれど、帝国陸軍と連携して、)蒋介石政権の弱体化に成功した結果、国際音痴の米国にとってさえも、支那の戦後が中共政権になることは必至と思われたからであり、ソ連としても、当然ながらこの認識を同様に抱くに至っていたと思われる上、中共が米国の篭絡に成功したこともまた見て取れたはずである以上、ソ連としては、対日戦を行って満州を占領した上で、満州を併合ないし保護国化するよりも、満州を中共に引き渡して恩を売ることで、中共の米国離れ、親ソ化、をもたらすことの方が得策である、と考えた、ということでしょうね。
 なお、米国を篭絡すること、や、その方法について、帝国陸軍が、毛らに吹き込んでいたとしても、私は全く驚きません。(太田) 

 対中援助物資を押さえて国民政府を困らせる一方、アメリカの対中援助物資によって八路軍を武装させねばならないと主張し、抗戦の後期にきわめて大きな障害をもたらしたのは中緬印(中国・ビルマ」・インド)戦区司令官兼蒋介石(中国戦区統帥)の参謀長<たる米軍人の>スティルウェル<(コラム#5716、6342、6344、6350、6391、6413、7177、7807、7844、8330、8628、8851)>である。・・・」(169~170)

⇒繰り返しますが、単細胞の米国は、支那において、単に勝ち馬らしい側に乗った、というだけのことだった、と私は思うのです。(太田)

(続く)