太田述正コラム#10303(2019.1.9)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その29)>(2019.3.31公開)

 「<1940年8月から12月にかけての>「百団大戦」・・・以後、八路軍と日本軍のあいだで、事実上の黙契、すなわち八路軍は日本軍を攻撃せず、太平洋戦争で軍事力の不足を感じていた日本軍も八路軍を攻撃しないという黙約を結んだ。・・・

⇒それを裏づける典拠を著者は全く示していないので、これは、著者の単なる憶測である、とみなさざるをえません。
 私が、1937年7月7日の盧溝橋事件より前には、帝国陸軍と毛らの間に、黙契どころか、一種の正式合意がなされていたに違いないと考えているのは、それによって、同事件勃発、及び、拡大の理由を合理的に説明できるだけでなく、それに引き続く、8月13日から10月26日までの第二次上海事変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89 (※)
の真っ最中の9月に、潘漢年を上海に派遣し、駐在させていること
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%98%E6%B1%89%E5%B9%B4
が、私の説を裏付けている、と考えているからです。
 というのも、それは、時期的に、帝国海軍の陸戦隊しか上海にいない状態が変わり、8月23日に帝国陸軍の上海派遣軍2個師団が上陸(※)し、潘が、帝国陸軍と直接連絡調整ができるようになった、まさにその頃だからです。
 (中共は、帝国海軍との間ではチャンネルを有さなかったし、チャンネルを確立するつもりもなかった、と考えられる、というか、そう杉山らが中共に言い含めた、と考えられるところです。)
 にもかかわらず、どうして、百団大戦を八路軍は仕掛けたのでしょうか。
 第二次上海事変を契機に、第二次国共合作がようやく成り、国民政府軍事委員会の指揮下に旧中共軍を呼称変更しただけの八路軍、そして、同じく旧中共軍を呼称変更しただけの新四軍が置かれることになったところ、それにとどまらず、国民政府から、この両軍に武器、弾薬、資金が補給されるようになった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%90%88%E4%BD%9C
というのに、両軍とも対日戦を回避し続けたために、国民政府から叱責を受け続けていたところへ、1940年3月30日に汪兆銘政権が南京で成立し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98
危機意識にかられた国民政府からのより強い叱責に耐えられなくなった八路軍の副司令の彭徳懐からの抗日戦実施の強い要請を中共の党中央も渋々了承せざるをえなかった、ということではなかったか、と、私は思うのです。
 但し、百団大戦で指揮を執った、この彭徳懐が、本気で戦い過ぎ、その結果、帝国陸軍に多大な迷惑をかけ、八路軍にも多大なる死傷者を生ぜしめたために、毛沢東は呆れ、怒り狂ったのではないか、とも。(太田)
 
 毛沢東は中華人民共和国樹立後、国家機関を利用して、長期的かつ体系的に中国の伝統文化を破壊し、ソビエト・ロシアの価値観を提唱し、中華民族の魂を失わせようとした。
⇒このくだりが全くの見当違いであることは、もう説明を要しないでしょう。(太田)

 だが、毛が晩年の10年に行ったプロレタリア文化大革命は失敗に終わった。
 マクロの歴史的視点から言えば、これはスターリン主義・毛沢東思想が中国の伝統文化と力比べをして負けたということである。・・・

⇒毛沢東が試行錯誤的に、次々と発動したところの、日本文明総体継受を狙った、ショートカット的な様々な方策は、ことごとく失敗に終わった、それだけ、異なった文明が、日本文明総体継受をすることは容易ではなかった、というだけの話です。(太田)

 毛沢東時代、粛清されたり餓死した人は4000万以上(多くの知識エリートを含む)に上ったことも明らかになっている。

⇒杉山戦略の実行、そしてその完遂、にあたっては、それが世界史的大事業であっただけに、多大の犠牲を伴わざるを得なかった、ということです。(太田)

 これに毛沢東と中共が抗戦中、中華民族を裏切ったことを付け加えるなら、彼の功罪がどこにあるか明白ではないか。
 彼は呉三桂<(注39)(コラム#5108、6545)>、石敬●<(王偏に唐)>(注40)>(せきけいとう)、汪兆銘ら民族を裏切った者たちの隊列に組み入れるべきではないのか。

 (注39)1612~78年。「遼東で清軍に対峙していたが李自成の北京占領に際して清に味方し、清の中国平定に尽力した。平西王として勢力を揮うが後に清に背き、三藩の乱を引き起こした。周王朝(大周)を建国して皇帝を称したが、清に滅ぼされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E4%B8%89%E6%A1%82
 (注40)892~942年。「突厥から文化的及び血縁的に大きな影響を受けたソグド人の家系に属するとされる。・・・幼少の頃に李嗣源(後唐の明宗)に認められ、その娘婿となる。・・・明宗が即位した後、・・・節度使を歴任した。その後、李従珂(末帝、廃帝)が即位すると、・・・左遷されている。その後、国内の反乱に乗じ、契丹の勢力を頼って皇帝を称した後に、契丹の兵を用いて天福元年(936年)に後唐を滅ぼし、後晋を建国した。即位後に燕雲十六州を契丹に献じ、毎年30万疋の絹を献上する盟約を結び、自分より10歳年下の太宗を「父皇帝」と称し、自らを「児皇帝」と称した。・・・
 漢奸の典型として、南宋の秦檜などとともに非難されることが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%95%AC%E3%83%88%E3%82%A6

⇒例えば、石敬●一人をとっても、彼が、(漢人ではないことはもとよりですが、)果たして支那民族に属すと言い切れるか疑問であり、支那大陸史を民族史的に捉えることに、そもそも無理があります。
 いわんや、前にも記したように、杉山にせよ毛にせよ、日本民族だの支那民族だのを超越した人々なのであり、著者の頭の固さには嘆息するほかありません。(太田)

 実際、彼はこれら歴史上の漢奸よりさらに何倍も大漢奸なのである。
 しかしこれは毛沢東が単独で行ったものではない。
 統一戦線のナンバーワンの実行者、周恩来ははっきりと知っていたはずである。・・・
 
⇒私は、前にも指摘したことがあります(コラム#省略)が、周恩来が毛沢東と一心同体であったとは言い切れないと思っています。(太田)

 一部の人たちは共産主義の信念をもっていた。
 この信仰は階級の利益が民族の利益よりも崇高であると規定しており、彼らはこれを忠実に執行した。
 それゆえ抗戦は中共が利用する「道具」となり、日本の侵略者に対して真に抵抗・反撃するものではなかった。
 党の方針がそうである以上、党の領袖たちが民族に立脚する観点をもつことは一度もなかった。」(222~223、227~228)

⇒「共産主義」を「マルクス主義/人間主義」と読み替えるとすれば、このくだりは、結果的にですが、私の考えとほぼ同じです。(太田)

(完)