太田述正コラム#10367(2019.2.10)
<杉山元と日本型政治経済体制(その1)>(2019.4.30公開)

1 始めに

 表記について、改めて整理しておく必要を感じたので、さっそく実行に移しました。

2 杉山元と日本型経済体制

 (1)日本型経済体制の構築

 「日中戦争から先の大戦の間の日本の経済体制の核心部分は、石原<莞爾>の唱えた持久戦体制が、<商工官僚の>岸信介、椎名悦三郎<ら、及び、満鉄社員の>宮崎正義らの協力の下、その基本的部分が実現したものである」(拙著『防衛庁再生宣言』234頁)ところ、この経済体制のユニークさについて、上記部分に引き続く、マクリーシュの評価も読み返して欲しいですが、現在ならば、私は、後述するところの、杉山の、一貫した経済への強い関心からして、「杉山元の指導の下、石原の唱えた持久戦体制が、<商工官僚の>木戸幸一、岸信介、・・・」とするところです。
 杉山への言及の理由はお分かりだと思いますが、木戸への言及の理由については後ほど詳述します。
 さて、商工省の「木戸幸一」や岸信介らによる重要産業統制法の制定(1931年3月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
もその施行(同年8月)も、当時の杉山陸軍次官(1930年8月1日~1932年2月29日)
http://www.geocities.jp/since7903/gunbu/rikugun-zikan.htm
の差し金だ、と、最近、私は見るに至っている(コラム#10193)わけですが、1930年6月に、商工省にその外局として臨時産業合理局が設けられた(コラム#10042)(注1)
https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0090-0010-0040-0030-0050.html
ことだって、当時の杉山陸軍軍務局長(1928年8月10日~1930年8月1日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80
の差し金だ、と見てよいのではないでしょうか。

 (注1)「官民一体としての産業合理化を目指し、産業の整理・統制、生産技術・管理方法の改善(製品の規格統一、従業者教育、科学的管理法の徹底など)、産業金融の改善、国産品の愛用について、常設・臨時委員会を設け、具体的方策の決定・実施にあたった。1937(昭和12)年4月30日・・・商工省統制局へ業務移管された。」
https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0090-0010-0040-0030-0050.html 前掲

 (2)日本における経済成長計画の策定

 このような日本型経済体制の構築によって、「日本は、欧米諸国が大恐慌以降の経済停滞に悩む中で、最も早く高度成長軌道に乗」ることとなった(前掲拙著235頁)ところ、その後、経済成長計画を策定させたのも杉山元だった、と見るべきなのです
 (以下、既に太田コラムで取り上げ済みの部分もあるはずなのですが、当該コラムを「発見」できていません。)
 どうしてか?
 杉山元が参謀次長であったのは、1934年8月~1936年3月です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
が、宮崎に日満財政経済研究会(宮崎機関)を設立させたのは、参謀本部から10万円、満鉄(松岡洋右総裁)から10万円の当座の運営資金を提供
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E7%BE%A9
させたところの、当時(事実上の参謀総長たる)参謀次長の杉山だった、と断定してよいからです(コラム#不明)。

 (遡れば、宮崎は、「1930年秋、石原莞爾と出会い、石原の経済面のブレーンとなり、・・・<石原らが杉山陸軍次官(当時)の「指示」に従って満州事変を起こし(コラム#10354)、更に満州国を設立した後、>1932年(昭和7年)、関東軍の経済政策実現のための機関である満鉄経済調査会の設立に尽力し、第一部主査兼幹事に就任し<、>「満洲経済統制策」「満洲国経済建設綱要」を立案した。」(上掲)とされていますが、関東軍作戦主任参謀として満州に石原を送り込んだ(1928年10月~1932年8月)
https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/ishiharakannji1.php
のは当時軍務局長であった杉山である可能性が高い・・「石原<は、>昭和2年(1927年)に書いた『現在及び将来に於ける日本の国防』には、既に満蒙領有論が構想されて<おり、>・・・『関東軍満蒙領有計画』には、帝国陸軍による満蒙の占領が日本の国内問題を解決するという構想が描かれてい<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE 
ことを当然杉山は知っていたはず・・とかねてから私が指摘している(コラム#省略)ところ、この2人を引き合わせたのも、その上で、これらを宮崎に作らせたのも、当時、陸軍次官であった杉山であったとしても私は驚きません。)

 さて、こうして設立された宮崎機関は、以下のような活動を行います。↓

 「1936年(昭和11年)に「満洲産業開発5カ年計画」、1937年(昭和12年)5月に内地用の「重要産業5カ年計画要綱」を作成する。前者は1936年10月の湯崗子会議で決定された。・・・1937年6月15日の近衛内閣の「我国経済力ノ充実発展ニ関スル件」で重要産業5カ年計画要綱は閣議決定される。しかし、同年の日中戦争で双方の計画は大幅に変更され、4月から始まった前者は鉱工業生産を中心に増額修正され、満州でも内地と同じ物資動員計画がつくられる。後者は1939年1月17日の平沼内閣による「生産力拡充計画要綱」まで本格的な実施は待つことになる。1937年10月に物資動員を担当する資源局と生産力拡充を担当する企画庁が合体して企画院が設立され、当時の近衛首相に頼まれて企画院調査官の秋永月三のもとで「日本綜合国策案」を作成するなど宮崎機関の活動は企画院に吸収された。」(上掲)

 ここに出てくる、「満洲産業開発5カ年計画」の採択は杉山教育総監(1936年8月1日~1937年2月9日)の時、そして、内地の「重要産業5カ年計画要綱」の採択は杉山陸相(1937年2月~1939年1月)の時
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
ということになりますが、そのどちらの採択時にも、いやそれだけではなく、そのどちらの作成時にも、参謀本部に石原莞爾がいた(1935.8参謀本部作戦課長、1936.6参謀本部戦争指導課長、1937.3~1937.9参謀本部作戦部長)
https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/ishiharakannji1.php
・・石原を参謀本部に呼び寄せたのは、当然、参謀次長当時の杉山です・・ことを勘案すれば、より端的に、どちらも、杉山が作らせたものだと言ってよさそうだ、と私は考えている次第です。
 (石原が、1936年の二・二六事件の際、作戦課長として、上司である杉山参謀次長の意を体して、叛乱部隊の説得、鎮圧に走り回ったこと(コラム#省略)、も想起してください。)
 ちなみに、「1960年代の国民所得倍増計画<・・重要産業5カ年計画の焼き直しだと見るべきでしょう(太田)・・>は池田内閣の成果とされるが、実は岸信介が前の岸内閣時代に発案したものである」(前掲拙著240頁)ところ、岸の発案源が何であったかは説明するまでもありますまい。

(続く)