太田述正コラム#10369(2019.2.11)
<杉山元と日本型政治経済体制(その2)>(2019.5.1公開)

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[木戸幸一–ミッシングリンク!]

 木戸幸一(1889~1977年)は、「父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹<の>治子と長州藩士来原<(くるはら)>良蔵の長男である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80 ※
ところ、孝正は、来原の自害後、木戸孝允の養子となっているので、孝允は幸一の養祖父でもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%8E%9F%E8%89%AF%E8%94%B5 *
 木戸は、学習院高等科では近衛文麿が1学年下にいたが、京大法卒後、農商務省に入る。
 農商務省から農林省が分離した後の「商工省では臨時産業合理局第一部長兼第二部長を務め、<また、>吉野信次と岸信介が起案した重要産業統制法を岸とともに実施した。昭和5年(1930年)、・・・近衛文麿の抜擢により、商工省を辞し、内大臣府<ナンバー2である>秘書官長に就任。
 昭和11年(1936年)<の>・・・二・二六事件では杉山元や東條英機<ら>・・・と連携して事件の処理を行い、その功績を昭和天皇に認められ、中央政治に関与するようになる。
 昭和12年(1937年)の第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣(1938年1月11日就任)、昭和14年(1939年)の平沼内閣で内務大臣を歴任する。・・・
 昭和15年には近衛と有馬頼寧とともに「新党樹立に関する覚書」を作成し、近衛新体制づくりに関わった。
 昭和15年から昭和20年(1945年)に内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、学習院<、京大>の学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードした。親英米派でも自由主義者でもな<く>、親独派として知られた。・・・天皇の信頼<も>厚かった。西園寺が首班指名を辞退したのちは、幸一が重臣会議を主催して首班を決定する政治慣習が定着、終戦直後にいたるまで後継総理の推薦には幸一の意向・判断が重要となる。とりわけ昭和15年11月に西園寺が薨去したのちは、木戸は首班指名の最重要人物となった。・・・
 木戸<は>日米戦争の焦点となった支那駐兵問題について、撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、・・・杉山元参謀総長や東條英機陸軍大臣とは連帯関係にあった。 」(※)

 木戸の実祖父の来原良蔵(1829~62年)は長崎海軍伝習所に学んでおり(1858年12月~60年6月)、同所にいた薩摩藩士や福岡藩や肥前藩の藩士達
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E4%BC%9D%E7%BF%92%E6%89%80
と交流し、また、公武合体工作調整のために肥後、薩摩に出張(1862年2月)している(*)ところ、これは、彼が薩摩藩士達と深い交流があったからこそと解され、彼が島津斉彬コンセンサス信奉者になっていた可能性が高い。
 幸一の父親の木戸孝正(1857~1917年)は、来原良蔵の長男で、木戸家の継承者となった人物だが、娘(木戸幸一の妹)を、児玉源太郎の長男で陸軍軍人の児玉常雄に嫁がせている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E6%AD%A3
 児玉源太郎は、長州藩の支藩の徳山藩の出身だが、陸軍次官兼軍務局長として陸相当時の(西郷隆盛の従兄弟たる)大山巌に、
http://www.shigin.com/hiroaki/tora-dokusyo/kodama_gen.htm
また、日露戦争時には、今度は満州軍総参謀長として司令官当時の大山巌に仕えており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E
大山の謦咳に何度も日常的に接することで、島津斉彬コンセンサス信奉者になっていたと思われる。
 そうだとすれば、木戸幸一は、父親から伝え聞いた祖父の事績を通じて、そして、妹婿である児玉常雄(1884~1949年)
https://kotobank.jp/word/%E5%85%90%E7%8E%89%E5%B8%B8%E9%9B%84-1075069
から伝え聞いた児玉源太郎の事績を通じて、更に、学習院、京大法の後輩である近衛文麿が体現している近衛家と島津家の一体性を通じて、二重三重にこのコンセンサスを吹き込まれたに違いない、と私は見ている。

 さて、杉山元は、1922年(大正11年)に初代陸軍省軍務局航空課長に就任している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
が、陸士出の工兵将校で、東大でも(恐らく航空工学を)学び、1932年に大佐で退役して父源太郎が作った、国策会社の満鉄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E
の関連会社である満州航空
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E8%88%AA%E7%A9%BA
の副社長(後に、社長、更には第日本航空総裁)になることになる、4年次下の児玉常雄、
https://kotobank.jp/word/%E5%85%90%E7%8E%89%E5%B8%B8%E9%9B%84-1075069 前掲
と、その頃、仕事の上で密接な関りを持ったと考えるのが自然だが、その縁で、義弟で農商務官僚の木戸幸一・・杉山は、商工省を督励して航空産業振興を図らせなければならない立場だった。・・を紹介され、今度は木戸から近衛を紹介されて、爾後、島津斉彬コンセンサス信奉者同士であることが互いに判明したであろうところの、この2人と親交を結ぶことになった可能性が高い、と、私は踏んでいる。
 (当然のことながら、杉山が、木戸の後輩官僚だった岸信介を知ることになったのも、木戸を通じてだったはずだ。)
 そして、駐英領インド武官の時の知見も踏まえ、アジア解放、や。駐ジュネーヴ陸軍随員の時の知見(「杉山元と厚生労働省」シリーズ内で後述)も踏まえ、日本型政治経済体制構築を訴える、杉山に耳を傾ける、10年次下の木戸の、その頃の姿すら、私には思い浮かぶ。
 で、私は、杉山は、その後の1923年からの軍事課長時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E8%88%AA%E7%A9%BA
に杉山構想を構築したと見ている(コラム#省略)ところ、その頃、陸軍軍人以外では、(近衛は除外して)木戸一人にだけは、自分のこの構想を打ち明け、協力する旨の確約を得た可能性が高いとも、私は踏んでいる。

(続く)