太田述正コラム#10413(2019.3.5)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その6)>(2019.5.23公開)

 裕仁が年長の木戸の庇護のもとに入った時、木戸幸一は15歳だった。そのしかめ面の若者はその堂々とした少年の兄貴としての役を演じ、後に裕仁の秘密結社の核となる何人かの十代後半の大兄たちを紹介した。こうした駆けだしの貴族たちはみな、1887年から1891年の間の生まれで、学習院で学んでいた。1937年の南京強奪の朝香親王は16歳、彼と腹違いの兄弟でほとんど双子なのが、1945年首相となった東久邇親王、もう一人の16歳の伯父が北白川親王<(注9)>で、彼は1923年諜報活動のさなかにフランスで死んだ。

 (注9)北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう。1887~1923年)。「<父の>北白川宮能久親王<は、><伏見宮邦家親王<(前出)>の第9王子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B >東京陸軍地方幼年学校・・・陸軍士官学校(20期)、陸軍大学校(27期)・・・サン・シール陸軍士官学校に留学。・・・<自らが運転中の事故で死亡。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E6%88%90%E4%B9%85%E7%8E%8B

⇒皇族に「諜報活動」などやらせるわけがありません!(太田)

 この北白川の腹違い兄弟が15歳の小松輝久侯爵<(注10)>で、彼は真珠湾攻撃の海軍参謀を統率する。

 (注10)1888~1970年。「北白川宮能久親王第4王子。・・・皇族の子弟については、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、海軍兵学校等への入学は無試験で天皇の許可のみで許されていた。海軍兵学校への入学を希望していた輝久については、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般の者とともに試験を受けそれに合格して入学した。入学時の席次は180人中160<(122?)>番だった・・・皇族軍人の席次は首席であるのが通常であるが、・・・卒業時は26番である、これは輝久王(当時)が、特別待遇を受けることを拒否したためであった・・・21歳で海軍少尉候補生の時に臣籍降下し小松侯爵家を創設する。・・・海軍大学校<(席次不明)>・・・英国留学・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E8%BC%9D%E4%B9%85

⇒皇族が成績にゲタを履かされていたという「注10」からしても、閑院宮参謀総長はおとなしくしていたわけであり、伏見宮軍令部総長がいかに異常だったか、ということです。(太田)

 そして、こうした大兄のなかで12歳の子分格ながら、早熟で感受性高く腕白だったのが、藤原家系の近衛文麿で、彼は1937年、首相として日本を戦争に招いてゆく。
 典型的若き貴族として、こうした大兄たちは裕仁の兵卒となり、彼にいくさ話を伝えてゆく。彼らは常に、アジアを西洋の拘束から解き放つ日本の使命を語った。彼らは、文麿の父、近衛篤麿〔あつまろ〕が結成した東亜同文会――日本と中国の双方で開始された運動組織――に属していた。
 この組織で、大兄たちは知りあい、アジアらしいアジアや、そのアジアを日本のために操る危険な冒険を信奉する理想主義者の雑多な集まりの後援をするようになっていった。

⇒「東亜同文会<は>、1898年(明治31年)から1946年(昭和21年)にかけて、日本に存在した民間外交団体及びアジア主義団体<で、>上海に設立された東亜同文書院の経営母体であったことで知られる」が、「会員の犬養毅が政府に活動資金を出すように働きかけ、外務省機密費で年に4万円が支給された<ところ、>これにより、外務省の意向が会の役員人事にも影を落としていた半官半民の国策団体であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E4%BC%9A
とはいえ、皇族でしかも現役の陸海軍軍人であった皇族達が会員になっていたとは思えません。
 現に、同会の会員達・・創立時(?)の主要会員(?)・・の中に、皇族はおろか、現役軍人や官僚の姿すら見当たりません。
 このくだりは、バーガミニの妄想の産物でしょう。(太田)

 そのうち何人かは、黒龍会の全てを失った元サムライたちで、中国人を、白人の奴隷、麻薬輸入業者、あるいは互いに首を絞め合っている人々と見ていた。
 他は、僧衣に身を隠した無骨な隠密たちで、裕仁の母方の寺院である本願寺<(注11)>の高僧とつながっていた。

 (注11)香淳皇后の実妹の大谷智子(さとこ。1906~89年)。「東本願寺第24世法主・大谷光暢伯爵夫人。東本願寺裏方。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%99%BA%E5%AD%90

 この寺院は、1900年にはタイを訪れブッダの灰を持ちかえり、1902年には、中央アジアのサマルカンド砂漠へ、「古代仏教文化の遺跡を探る」探検隊を派遣していた。<(注12)>

 (注12)1902~1914年に3回にわたっていわゆる大谷探検隊を派遣したのは、この間の1903年に西本願寺第22世法主を継職した、大谷光瑞<で、>・・1913年・・・に孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任し<ている。>・・・<その>妻は大正天皇の皇后・九条節子の姉・籌子(かずこ)だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%91%9E

⇒東西両本願寺と東亜同文会との関係は、ネットでちょっと当たってみた限りでは発見できませんでした。
 大谷光瑞は、広義のアジア主義者とは言えそうですが・・。
 このくだりも、バーガミニの妄想に近い、と言えそうです。(太田)

 残る者は、日本人以外のアジア主義者で、本国での災いを逃れて東京に来た政治難民――そのうちの最も著名な者は、後に中国のジョージ・ワシントンとして知られるようになる革命家、孫文――の面倒を見ていた。
 孫文は、南中国の満州皇帝に対する蜂起を指導し、それが失敗して、中国の官憲から逃れて来日していた。彼は日本で、近衛宮親王や黒龍会の頭山によって保護されていた。1905年、東京の黒龍会の本部で、孫文は中国の革命政党――後の国民党――の海外逃亡者たちと会った。
 若い蒋介石――後に台湾の国民党を率いることとなる――は1907年、日本の陸軍士官学校の大学院生として東京に来た際、この党に加盟した。

⇒蒋介石が留学した東京振武学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3
は、「陸軍士官学校または陸軍戸山学校に入ろうとする清からの留学生の準備教育を目的として設立された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%8C%AF%E6%AD%A6%E5%AD%A6%E6%A0%A1
ものであり、予備校を大学院にすり替えるとは、バーガミニか訳者のうっかりミスだとしても、呆れてしまいます。(太田)

 1904年と1905年、東亜同文会の裕仁の大兄たちは、ひとつの熱望を抱いていた。それは、彼らを汎アジア主義的に興奮させるもので、ロシアとの戦争という差し迫った見通しを持っていた。1894年から1895年の日清戦争の際、明治天皇は満州のドラゴン皇帝を負かした。今、宮廷では、彼がモスクワ大公国の皇帝を打倒する準備をしているというのが共通した認識だった。

⇒?????(太田)

(続く)